筏なり
罪障おもしとなげかざれ
[#ここから1字下げ]
と彼は讃詠するのである。
[#ここから2字下げ]
末法意識と浄土における未来主義
[#ここで字下げ終わり]
親鸞は他力教の絶対性をまず、それが釈迦の本懐教[#「本懐教」に傍点]「出世の本懐」であることを示すことによって明らかにしようとした。釈迦出世の本意を知れとは親鸞における内面の叫びであった。釈迦如来がこの世に現われたのは、『法華経』の「方便品」の中にいうごとく「一大事因縁」によるのでなければならぬ。かくして『教行信証』教巻において親鸞は、「それ真実の教を顕はさば、すなはち大無量寿経これなり。」と掲げ、釈迦如来の出世の本懐は一に大無量寿経、すなわち弥陀の本願の法門を説くにあったことを述べている。「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり 五濁悪時の群生海 如来如実の言を信ずべし。」と『正信偈』に頌述している、釈迦一代の説法はその種類極めて多く、八万四千の法門があるといわれるが、これら多種多様の説法もついに『大無量寿経』を説くためであり、弥陀の本願の教にとって他のすべては仮のもの、方便のものに過ぎないのである。釈迦の「出世の大事」は限りない慈愛をもって衆生を救わんがために弥陀の慈悲の教を説くためであったのである。この教のみが真実の教である。「如来興世の正説」である。しかもこの絶対的真理の開示は我々において歴史的なものとして受取られなければならぬ。「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀《きょうあい》したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡《こうせん》して群萌をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり。無量億劫にもまうあひがたく、みたてまつりがたきこと、なをし霊瑞華のときありてときにいましいづるがごとし。」と『大量無寿経』にはいわれてある。親鸞は「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見とときたまひ猶霊瑞華としめしける」と讃詠した。弥陀の本願の教の絶対性は、それが無時間的であることを意味しない。この教は歴史的に釈迦によって開顕されたのであり、我々におけるこれが信受も歴史的に決定さるべきものである。人身を受けるということはあり難く、また仏法を聞くということはあい難い。いまこの受け難い人身を受け、この聞き難い法を聞いたとすれば、速かにこれを信受しなければならぬ。
第二に、この教の絶対
前へ
次へ
全39ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング