は時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。
 諸種の経文は末世においては正法が滅んで戒を持するものがないことを述べている。すでに正法が滅び、戒法がなくなっている以上、この時代にはもはや「破戒」ということすらない。なぜなら戒法があって破戒ということがあるのであって、破るべき戒法がなければ破戒のあろうはずはないのである。したがってこの時代の特徴は破戒ではなく、まして持戒ではなく、かえって「無戒」である。『末法燈明記』には次のごとくいわれている。「しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて、しかも行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破るによりてか、しかも破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。かるがゆへに大集にいはく、仏涅槃ののち無戒くににみたんと。」像法の季、末法の時代は無戒の時代である、持戒の比丘はなくなり、いわゆる無戒名字の比丘、すなわち鬚を除《さ》り髪を剃って身に袈裟を着けてはいるが戒を持することのない名ばかりの僧侶になる。僧侶であって肉食妻帯するものが現われるであろう。しかしこれを単純に破戒と見て非難攻撃することは時代のいかなるものであるかを知らないものである。破戒と無戒とは同じでないことを考えなければならぬ。
 一方無戒は破戒以下である。破戒者は戒法の存在することを知っており、戒法の畏敬すべきことを知っておりさえするであろう。かくして彼は時には懺悔することもあるであろう。しかるに無戒者は戒法の存在すら意識しない。彼は平然として無慚無愧《むざんむき》の生活をしている。無戒者は無自覚者である。「非僧非俗」と称した親鸞は自己の身において無戒名字の比丘《びく》を見た。そして非僧非俗の親鸞はみずから「愚禿」と名乗ったのである。彼は「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄」といった伝教大師の言葉に深い共鳴を感じた。無戒は破戒以下である。このことがまず自覚
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