以後の記述に大乗教が次第に衰えて、やがて末法の時代に至ることを述べている。
[#ここで字下げ終わり]
もとより親鸞は末法の教説において時代に対する単に客観的な批判を見出したのではない。彼は決して単なる理論家、傍観者ではなかった。末法思想は彼においてあくまでも主体的に把握された。歴史を単に客観的に見てゆくことからは、そもそも末法思想のごときものは生まれないであろう。ただ客観的に見てゆけば、歴史における進歩といい退歩といっても、要するに相対的であり、進歩と退歩とは単に程度上のことで、進歩の反面には退歩があり、また退歩の反面には進歩があるということができる。末法思想は死の思想のごときものである。それは歴史に関する死の思想である。死は主体的に捉えられるとき初めてその問題性を残りなく現わすごとく、末法思想も主体的に捉えられるとき初めてその固有の性格を顕わにするのである。正像末の歴史観は親鸞にとって客観的な歴史叙述の基礎として取り上げられたのではない。「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ。」と親鸞は『正像末和讃』にいっている。単なる批判ではなくて悲泣[#「悲泣」に傍点]である。救い難い[#「救い難い」に傍点]現実が身にしみて歎き悲しまれるのである。
次に親鸞にとって正像末の教説は、単に時代に対する批判であるのみではなく、むしろ何よりも自己自身に対する厳しい批判を意味した。批判されているのは自己の外部、自己の周囲ではなく、かえって自己自身である。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし。」と彼はかなしみなげくのである。自己を「底下の凡愚」と自覚した彼は十六首からなる『愚禿悲歎述懐』を作ったが、我々はこれが『正像末和讃』の一部分であることに注意しなければならぬ。すなわち彼は時代において自己を自覚し、自己において時代を自覚したのである。
ところで自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。時代はまさに末法である。このことはまた時代の悪に対する弁解ではない。時代を末法として把握することは、歴史的現象を教法の根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪を超越的な根拠から理解することであり、そしてこのこと
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