発の義で、衆生の心に法をうくべききざしあること。
 時機――機の歴史性、
『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとってまことにふさわしい教えである。時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。
 機と性との区別 動的と静的。

○時機相応
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「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ、機にそむけるなり、浄土真宗は在世正法、像末法滅、濁悪の群萌、ひとしく悲引したまふをや。」
「もし機と教と時とそむけば、修しがたく、入りがたし。」『安楽集』による。
「当今は末法にし、これ五濁悪世たり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」『安楽集』による。
「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。」
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○悪人正機
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「これも悪凡夫を本として善凡夫を傍に兼ねたり。かるが故に傍機たる善凡夫なを往生せば、まはら正機たる悪凡夫いかでか往生せざらん。しかれば善人なをもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべしとおほせごとありき。」『口伝鈔』第十九章。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」『歎異鈔』三章。
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  二 歴史の自覚

 人間性の自覚は親鸞において歴史の自覚と密接に結びついている。彼の歴史的自覚はいわゆる末法[#「末法」に傍点]思想を基礎としている。末法思想は言うまでもなく仏教の歴史観である正像末三時の思想に属している。我々はまずこの歴史観がいかなるものであるかを見よう。
 
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