能的なものがひとりでに現実的になるのではない。弩が機発するのは射る者があってこれを発するからである。〔欄外「弩に可発の機がなければ、いかにこれを発しようとしても発し得ないであろう。衆生《しゅじょう》にまさに生ぜんとする善がある故に仏が来たりて応ずればすなわち善生ず。応は赴の義。」〕しかしこの可能性は単に静的に含蓄的であるということではない。機は動の微、きざしである。まさに動こうとして、まさに生ぜんとして、機である。〔欄外「教法化益によりて発生さるべき可能性あるもの。」〕第二に、機は機関という熟字に見られるごとく関の意味を有する。関とは関わる、関係するということであって、一と他とが相対して相関わり、相関係することである。衆生に善あり悪あり、共に仏の慈悲に関する故に、機は関の意味を有するのであり、すなわち教法化益に関係し得るもの、その対者たり得るものの意である。もし衆生がなければ、仏の慈悲も用いるに由なく、衆生ありてまさに慈悲の徳も活くことができる。応は対の義。一人は売ろうとし、一人は買おうとし、二人相対して貿易のことがととのうごとく、〔欄外「主客相合うて売買が成立つ。」〕衆生は稟《う》けようとし、仏は与えようとし、相会うところで摂化済度のことが成るのである。これが食い違うと摂化のことはととのわない。〔欄外「須宜」〕そこで第三に機は機宜という熟字に見られるごとく、宜の意味を有している。関係するものの間にちょうど相応した関係があることをいう。例えば函と蓋とが、方なれば方、円ければ円、恰好相応して少しもくいちがいのないように、無明の苦を抜かんと欲せば、正しく悲に宜しく、法性《さとり》の楽を与えんと欲せば、正しく慈に宜し。衆生に苦あり、あたかも仏の抜苦の悲に宜しく、衆生に楽なし、あたかも仏の与楽の慈に宜しく、仏の慈悲はよく衆生に相応しているのである。機は教法化益を施すに便宜あるものの意。かくして機と教、機と法とは相対する、両者の関係は動的歴史的。
 その機は何らかの根性を有する故に根機と称せられる。いっさいの衆生、過去・現在の因縁宿習を異にし、その面貌の異なるごとく、その根性別なり、〔欄外「善悪智愚の別」〕したがって教法をこうむるべき機として千差万別なり、しかるに教法化益もし機に乖《そむ》けば、その益あることなし、故に仏は千差の方便を尽し、万別の教法を施せり。性得の機。機は可
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