細部に亙って客観的に一々調べてゆくというのでなく、先生自身の立場から直観的にその本質的な内容を掴《つか》むという風であった。このような主観的な読み方がよくその本の客観的な本質に触れているのは驚くべきほどで、先生の直観力の深さを示すものであろう。先生にはまた本そのものに対する鋭い勘があって、善い本、有益な本、読まねばならぬ本を勘で見分けられることができるようである。その勘がまた実に正確である。かような直観は天分にも依るであろうが、また永い間多くの本に親しむことによっておのずから養われてくるものである。京大の哲学研究室が現在その方面で恐らく日本で最も良い蔵書を持っているのも、先生が教授時代に熱心に系統的に蒐集《しゅうしゅう》されたおかげであろうと思う。京都にいた時分、その研究室に本を借りに行くと、書庫に入って本を探していられる先生をよく見かけたものである。
 先生の魂には何か不敵なものがある。お宅に訪ねた時など、有名な哲学者の名を挙げて、どうかと伺うと、いきなり「あれは駄目だ」という風に、ずばりと云い切られる。その簡単な批評がまたよく肯綮《こうけい》に当っていた。私は先生の直観の鋭さに敬服
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