ている。いわゆる純文学の危機として提出され、討論された問題を通じて、この時代における人間のレエゾン・デエトルとしての文学の問題は、多かれ少なかれ自覚的にされた。しかるに最もラジカルであるべき哲学の領域においては、何事もあまりに無感覚に、安易に、妥協的に片づけられて来た。何よりも「問の情熱」、この哲学的情熱が喪失しているのである。
誰も語学者と文学者とを区別することを知っている。学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者は、いわゆる哲学者の間にも同様の区別のあることを感じることができるはずだ。
現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。生存理由としての哲学の問題との関係において哲学の方法も、対象も、形態も現実的に決定されるものである。この根源的な問の生きている場合初めて、哲学の言葉、その面倒な術語ですらもが、「具体性」をもつことができる。或る哲学が具体
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