生存理由としての哲学
――哲学界に与うる書――
三木清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)滑《なめら》か

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](『読売新聞』一九三三年四月十九日)
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 時代は行動を必要とする、あらゆるものが政治的であることを要求している。このときしかし、哲学するということは、およそ人間の生存理由もしくは意義をなし得るであろうか。人間の「レエゾン・デエトル」として、哲学はいかなるものであるべきであろうか。これは現代において、すべての哲学者にとって、最も切実な問題でなければならぬ。哲学が学問としていかなるものであるべきかということも、かようなレエゾン・デエトルとしての哲学の問題に従属し、それとの関連において初めて具体的に答えられ得るはずだ。
 しかるにわが国の哲学は今に至るまでかくのごとき問題をあからさまに問題にしたことがない。そしてそれこそ「哲学的精神」の根本的な窮乏を語るものである。なるほど、日本の哲学は、知識としては十年前とは比較にならぬくらい発達した。けれど今日、哲学に従事する者自身ですら誰も、哲学が隆盛だとは信じていないのである。悪いことには、なまじっか哲学的知識が殖えたために、この時代において哲学することそのことが危機にあるのでないかどうか、を真面目に考える者がほとんどいない。
 一方ではすべてがルーティヌに従ってなされている。哲学は教授用のものとなり、あるいは単に教授になるためのものとなっている。哲学は今日人間の可能なる生存理由としていかなるものであるかについて、ひとは根源的に問おうとはしない。他方講壇哲学を見捨てた者の多くは、いわゆる知識社会学、イデオロギー論、等々、に赴いた。しかしながらこの者も、そのイデオロギー論、等々が果たして本来の哲学であり得るか否かについて、あまりに単純に考え、もしくは少しも考えてみない。
 ここではすべてがイージーに行なわれるのをつねとした。問題は社会だといえば、社会の概念が、問題は歴史だといえば、歴史の概念が、問題は唯物論だといえば、唯物論的見方が、それぞれ哲学の中へ取り入れられた。すべては滑《なめら》かに、多少の喧噪《けんそう》があったにしても根本においては何事も起らなかったかのように取り行なわれた。
 文壇においては事情は多少異なっ
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