時体制の強化に対する障碍として犠牲にされたものである。もちろん、ソヴェートにおいてはこの準戦時体制の強化も間接には社会主義擁護の目的をもっているのであるが、しかし直接には準戦時体制と社会主義とは一致するものではなかろう。政治の固い論理が犠牲を要求したのである。しかも、もしこの犠牲の責任を問うとすれば、間接には世界のファシスト諸国にも責任があるといい得るであろう。
我々が知りたいのは、ソヴェート民衆が今度のような事件をいかに考えているかということであるが、それも言論の統制が完全に行なわれている国においては不可能なことである。革命以後すでに多くの歳月を経ているのであるから、教育の力によって、我々にはそのまま受取ることのできぬ政府の説明をもそのまま受取って安心しているように見える。どのような制度でも、一定の期間以上存続すると、その間にすべての人間をその制度に適したように作りかえることによって、維持力をいわば加速度的に増して来るものである。この点からいっても、今度の事件のためにソヴェート政権に大きな動揺が生ずるとは想像されない。
右は政治の論理である。しかしいずれにしても、革命の功労者の多数が次から次へ倒されてゆくのを見ては、我々は政治の論理の非情性を思わずにはいられない。我々のヒューマニスティックな感情はそこになにか忍び難いもの、反発するものを感じるのである。個人は社会のために存在するというだけでは済まされない。ヒューマニズムの論理は政治の論理に一致し難いものがあり、そこに歴史の悲劇というものが考えられる。この悲劇はもとより単にソヴェートにおいてのみでなく、世界の到るところにおいて、過去および現在にわたって、見られることである。オプティミスティックな政治主義が考えるように、簡単にこの悲劇がなくなるとは想像され得ず、かえって悲劇は歴史の本質であるように思われる。政治の論理と人間の論理との一致を理想として歴史は限りなく悲劇を繰り返しつつ進んでゆく。ジードの『ソヴェート旅行記』のごとき、まさにそのことを示している。
今日の世界の不幸は独裁政治であるというよりも政治の独裁である。独裁政治はむしろ政治の独裁の一つの形態である。戦争の危機を前にして政治の独裁は強化されるばかりである。かような政治の独裁が制御されねばならぬ、政治の独裁に対する批判的な力が強化されなければならない。
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