ために何物も精神から取り去られていないことを認識する。なおまた意欲の能力、感覚の能力、理解の能力、等々は、精神の部分と言われることができない、なぜなら、意欲し、感覚し、理解するのは一にして同じ精神であるから。しかるにこれに反して、私が思惟によって容易に部分に分割し、そしてまさにこれによってそれが可分的であることを私の理解しないような物体的ないかなるものも、すなわち延長を有するものも私によって思惟せられることができないのである。この一事は、精神が身体とはまったく異なっていることをば、もしまだ私がこのことを他のところから十分に知らないならば、私に教えるに足りるであろう。
 次に私は、精神が身体のすべての部分からではなく、ただ脳髄から、あるいはおそらくそれのみでなく単に一つの極めて小さい部分、すなわちそこに共通感覚が存すると言われる部分から、直接に影響せられるということを、認めるのである。この部分は、ここで数え上げることを要しない無数の経験の証明するごとく、それが同じ仕方で配置せられるときはつねに、たといその間に身体のその他の部分は種々異なる状態にあることができるにしても、精神に同一のものを
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