飲料を必要としないのに渇いた咽喉を有するということから、その自然は頽廃していると言われるとき、それは単に外面的な規定であるにしても、しかし合成体、すなわちかかる身体と合一せる精神について見るならば、飲料が自分に害をするであろうときに渇くということは、単なる規定ではなく、かえって自然の真の誤謬である。従ってここに追求すべく残っているのは、いかにして神の善意はかように解せられた自然が欺くものであることを妨げないのであるか、ということである。
ところで私はここにまず第一に、精神と身体との間には、身体は自己の本性上つねに可分的であり、しかるに精神はまったく不可分的であるという点において、大きな差異が存することを認めるのである。というのは実に、私が後者、すなわち単に思惟するものである限りにおける私自身を考察するとき、私は私のうちに何らの部分をも区別することができず、かえって私は私がまったく一にして全体的なものであることを理解するからである。そしてたとい全体の精神が全体の身体に結合せられているかのように思われるにせよ、しかし足、あるいは腕、あるいはどのような他の身体の部分を切り離しても、私はその
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