とが出来ます。それは多数の大学を視、沢山の書物に触れることが出来ると云ふ意味ではありません。恰も私たちがひとの顔に於いて感情を視、ひとの手に於いて欲望に触れる[#「触れる」に傍点]ことが出来るやうに、私たちは大学やゼミナールや書物に於いてひとつの学問的意識[#「学問的意識」に傍点]を視たり、それに触れたりすることが出来るのです。私が到るところ学問的意識にぶつつかるのは、この学問的意識が生命をもち、自然の力によつて成長してゐるからでせう。芝居の言葉に「芸が板につく」と云ふことがあつたと思ひます。私がこちらの学者をみていつも思ひ出すのはこの言葉です。彼等の学問に無理がなく、歪められたところがないのは、彼等が凡てひとつの学問的意識の中に育つてゐるがためでせう。このやうな学問的意識が自然に成長して、あらゆる学問的現象の中にはたらくやうになるためには、永い間の歴史的背景が必要なことは固より云ふまでもないことです。この意味に於いて例へばハルナックの書いたプロイセンのアカデミーの歴史を繙くことも興味のあることでせう。しかしまた学問的意識の自由な、自然な成長発達を可能ならしめるやうな制度が出来てゐると
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