らゆる時代、凡ての民族に於いて、相異なる、創造的なる実現の形式をとりながら、しかも絶えずめぐり来る統一がシュティルと呼ばるべきものです。「この精神的統一の認識が新しい歴史科学の精神」であるとシュトリヒは云つてゐます。若い歴史科学の問題は「嘗てひとたび在つたところのものでなく、つねに在るところのもの」であり、それは本質的に精神的なるもの、本質的に人間的なるもの、従つていつでも存在してゐるものに就いて物語ることである、と彼は主張します。シュトリヒの云ふところが新しいと云ふのではありません。しかしながらこの文学史家によつて新しく要求されてゐるものは、現代の多くの歴史哲学者がまた目差してゐるものであるやうに見えます。永遠に人間的なるものの生命のメロディーとリュトムスとを感得しようと云ふのが人々の切実な要求であるのでせう。若い人たちの間に切りにキェルケゴールが読まれてゐるのも私はこの要求のひとつの現はれであるとみたいのです。しかしながら歴史をひとつの生命の現はれであるとして考へるに当つても、ここにいふ生命は単なる生命ではなくて、ひとつの歴史的[#「歴史的」に傍点]生命であると云ふこと、そしてこの「歴史的」と云ふことが恰も私たちの問題になるのだと思ひます。従つて歴史的生命をひとつの有機的[#「有機的」に傍点]生命のアナロギーに依つて考察すると云ふことは、やはり「本質的に歴史的なるもの」を取逃すことになりはしないでせうか。歴史科学の課題をひとつの Morphologie と解することは、その前提に於いて矛盾を犯してゐると思ひます。例へば有機体とのアナロギーに依つて、社会に目的関係の存在することを論断しようと云ふのは、むしろ正当な論理的順序に逆行するものではないでせうか。目的、機能または構造の関係は、歴史的社会的現実に於いてこそ実際に体験され、到る処追跡し得るに反して、有機体の領域に於いては却つてこれらの関係は、単に仮説的な補助方法に過ぎません。それ故に有機体の概念を歴史的事実の研究の指針とするのでなく、むしろ自然研究が社会的事実のアナロギーを用ゐるのが当然であるとみられねばなりません。自然哲学的思弁を歴史の解釈の中へ導き入れるほど危険なことはないでせう。
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こちらへ来て私が特に感じるのは、学問が大きな根を張つて成長してゐると云ふことです。私は学問を視、学問に触れるこ
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