在を「机」として見る[#「見る」に傍点]ことが既にひとつの解釈です。それ故に存在と解釈とは唯抽象的に分つことが出来るばかりであります。この簡単な考察によつても、認識が対象の把捉であると云ふ前提は、立場の最小でなく却つて立場の最大を意味すること、特殊の立場に於ける特殊の考へ方にもとづく認識概念を本体論の予想とすることが、ひとつの冒険に過ぎないことは明かであります。歴史的に云つてもギリシア哲学には所謂 Gegenstand にあたる存在を現はす概念はなく、存在のうち第一のもの、直接なものは何よりも「プラグマ」であつたのです。プラグマと云ふのは私たちの扱ふもの、私たちのはたらきの相手となるものです。若しさうであるならば、ハルトマンが所謂現象学を論じ、所謂 Aporetik を論ずることも、つまりは宙に浮いてゐる人形を操ることになりはしないかを私は恐れるのです。アリストテレスのアポレティクは――若しこの言葉が許されるならば、――もつと深い洞察の上に立つてゐると信じます。同じ客観主義の人でもラスクなどの方が、同じ実在論的傾向の人でもキュルペなどの方が、もつと深いものをみ、もつと力強い基礎附けをやつてゐると思はれますが如何でせう。――貴方のお考へを承つた後に私はもつと詳しい批評をさせて戴くことにしたいと存じます。
それにも拘らず[#「それにも拘らず」に傍点]、何故にハルトマンが今の独逸で歓迎されてゐるか、貴方はかうお尋ねになるでせう。一夜私は数時間に亘つてひとりのハルトマンを信じる学生とハルトマンの哲学を論じ、私がこの哲学に於ける種々の困難を話しましたとき、彼は色々の答弁をした後で「それにも拘らず、ハルトマンの哲学ほど広い Horizont をもつてゐる哲学は現代にないではないか」と云ひました。折衷的であるにしても力強い統一を欠いてゐるにしても、少し仰山にものを云ふ嫌ひがあるにしても、とにかくハルトマンの哲学が広いホリゾントを目差してゐることだけは明かです。そしてこのやうに展望の広い哲学を今の若い学生は求めてゐます。複雑な経験を最近の歴史に於いて体験した来たこれらの青年のかかる要求には何の無理もないと思ひます。論理主義から一歩踏み出さうと云ふ努力や、 Sache そのものに帰れと云ふ標語は、凡て広い、大きなホリゾントを求めようと云ふ要求の現はれであるともみられるでせう。しかし
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