ものは己れ自身に具えた力によって内面的に発展して特殊の形をとるのである。
私はかつて「ライプニッツ哲学と個性概念」という論文を草して、ライプニッツ哲学の実体概念に関係して個性概念の幾分の論述を試みた。いまここにそれらの思想を繰返して書くことは、この一篇を完全な形にするためには必要なことかも知れないが、私自身にとっては無駄なことであるように考えられる。ただ私がそこにおいて個性概念を価値的同一と形而上学的同一との二つの観点から考察したことに関係して、私の意味する個性概念が心理学者の意味するそれと全く異なったものであることを注意するために次の事柄を指摘しておきたいと思う。私たちの生活の中に現われ出る感覚、感情、観念等は心理学者が説くように一々因果関係に束縛されておる。そしてそれらの感覚、観念、感情、欲望等の中のあるものは一般的なものとして他のものに増して執拗にまた力強く私たちの生活を支配しておる。しかるにある時現われ出た一つの新しいものが奇蹟的な力をもって私たちの日常生活をふつう支配しておるところの感覚、観念、感情、欲望等を駆逐し、征服し、もしくはそれらに新しき光を与えることがある。かかるものは私たちが日々の生活の中に殆んど感ぜられずにいてある機会に突然現われることもあろうし、また平生予感されていたものが一時《ひととき》猛然として現われることもあろうし、もしくは日も夜も求めて止まなかったのがあるときに与えられることもあろう。いずれにせよかかるものは永遠なるものに関係しており、しかしてかかるものは私たちの生活において偉大なる勢をもって価値の転換を遂行する。そしてかかるものが完全に私たちの内部を一新し終るとき、私たちはそれを更生とよぶことができる。私の考によれば、真の個性はそのとき少しも蔽われない姿において輝き出でるのである。とにかく個性とは永遠なるものに与り、を求める限りにおいて成立するところのものである。私が個性概念の価値的同一の方面の根柢を意志の自由に本《もと》づけたのもかくのごとき意味である。
[#以下、最後まで一字下げ]
私が最初ペンを取ったとき、私はこの一篇に少しの組織をも考え及ばなかったが、まもなく私の哲学の学徒としての要求がかかる種類のものにさえ何等かの秩序を求めた。そこで私は大体の計画を作りその計画に従って思索して得た結果を毎日十枚宛一ヵ月間記し続けて三百枚に至るの日ペンを擱《お》こうと思った。しかし中途にして私は再び初めの正しき動機に立返ることが出来た。組織や体系やは現在の私の問題の中にあってはならない。私自身の心の改造が何よりも肝要なことである。かくて私は私がそれについて書いてみようと思った、友情、恋、愛、教育、社会、文化の諸概念の考察を思い止ることにした。これらの諸概念の中のあるものたとえば友情、恋、愛等については私はこれまでにたびたび反省してみる機会をもつことができたのであって、現在の私はそれらの概念をもう一度吟味してみることに迫られていないと思う。また他のものたとえば教育、社会、文化等については、それらが私の今の心の状態に直接の関係をもっていないばかりでなく、私のそれらに関する知識や経験の貧しさは第一に私がそれらについて語ることの僣越を咎《とが》める。私は私が近頃それの悪を私の衷に特に感ぜざるを得なかった虚栄心、利己心、傲慢心の三者を排斥して素直な心をもって置換えることにこの一篇の中心目的を見出すのである。私の体系を求むる心が本当に私自身に迫るとき、もしくは私の生活がそれをさせずにはおかないようになったとき、私はいま私の考察から脱した、これまで幾度となく考えたあるいは未だかつて考えたことのない諸概念について思索を試みるであろう。
――千九百十九年七月十七日 東京の西郊中野にて脱稿[#地より2字上げ]
(『三木清著作集』第一巻所収 一九四六年刊 岩波書店)[#地付き]
底本:「語られざる哲学」講談社学術文庫、講談社
1977(昭和52)年6月10日第1刷発行
1978(昭和53)年2月10日第2刷発行
※混在している「憂欝」と「憂鬱」、「無頓着」「執着」と「無頓著」「執著」は底本通りとし、統一しませんでした。
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2000年10月2日公開
2001年7月27日修正
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