ののように思われる。私は私たちが最後の完成に達する日すべての苦しみと悲しみとが征服されており、あらゆる人間性が美しき解放を得て円満に調和し、福と徳とが完全に一致すべきことを信ぜずにはいられない。それにもかかわらず私が特に苦しみと悲しみとを高調するゆえんは、一方では現実の人間性がいかに不完全にして罪悪に充たされておるかを感ぜざるを得ず、他方では世のいわゆる楽しみがいかに多くの悪の根源となっておるかを見ざるを得ないからである。私たちが尊敬する体験深き人々が幾度となく繰返しておるように、私たちは徹頭徹尾罪をもって汚された弱く小さいものであって救済を要求せずにはいられないようなものである。いやしくも真に生きようという人は自己の醜さを悲しみ嘆かずにはいられない。あるいは逆に苦しみ悲しむ人はまじめであることができるのである。そしてまじめな人のみが本当に自己を反省することができ、従ってよき生活を生きることができるのである。現実の人生はそれの本質上からいってまじめなものは苦しみを感ぜずにはいられず、苦しみを感ずるものはまじめにならざるを得ないのである。しかのみならずかくのごとき本質的な罪苦の意識ばかりでなく、世間の人々がふつう苦しみといっておるものでさえ、私たちをまじめにすることができる。病気、死、災難、不幸などを経験させられるとき、傲慢な心も謙虚にかえり、無反省な精神も反省的となり、外向的な人も内向的となり、遊惰な人間も活動的となる。要するに苦しみは人をまじめにならしめる。そして苦しみの価値は主としてここにある。しかしながら私たちはその反面の事実を見|遁《のが》してはならない。いかなる苦しみにも堪《た》え忍びつつ、自己の精神を向上せしめる偉大な人々においてはもちろんあり得ないことであるが、矮小《わいしょう》な私たちの魂にあっては、多くの事実が示しておるように、あまりに多くの悲しみや苦しみは私たちの心を曲げさせ、拗《す》ねさせ、卑屈にし、猜疑的にするB要するにそれは素直な心を伸びさせない。私が襲って来るかも知れぬ苦しみに対して恐れ戦くのは主としてこの理由からである。(けれどいっそう徹底的に考えるならば、恐れ戦くということがすでに間違っているのかも知れない。運命はすべてを知っているはずだ。そして私たちの良心はいつでも、私たちがもしそれに従うことを厭《いと》わないならば私たちを正しき方向へ導いてくれるに相違ない。)
さて、あたかも私が楽しみを絶対に排斥するかのごとく見える理由は次の通りである。楽しみは多くの場合私たちを不まじめにする。それは私たちを事物の表面に軽く触れてゆくことに満足させてそれの内奥へはいって行って深く体験することを忘れさせる。それは私たちの反省の強さを失わせ従って私たちの性格の根強さをなくする。それは私たちを徹底と努力と活動とに励まさないでかえって不徹底と無気力と遊惰とに導く。けれどそれにも関せず私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである。豊饒《ほうじょう》な土地に卸《おろ》された種が伸びやかに生長して美しき花を咲かせやすいように、よき周囲の状態に置かれた心は純粋にまた正直に育って行って美しき夢を結びやすい。それは博大と自由との心に親しみやすい。かくして私の結論は次のような形をもって表わされても差支えないように思われる、私は楽しみを欲する、けれど弱小な楽しみよりも偉大なる苦しみを求める。しかしそれよりも以上に偉大なる楽しみを喜ぶ。あるいは私は偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみを憧れる。
素直な心は拗《す》ねることを知らないから、それはまたナイーブで率直である。それは純粋と無邪気とを貴ぶがゆえに、皮肉や洒落《しゃれ》やあてこすりがそれらのものを失わせはしないかを恐れる。自分が本当に感じたり考えたりしたことを率直にいったり行ったりするナイビテート(素直さ)によき魂の特質は見出される。率直な心の力は自己の利益や便宜を顧慮したり世間の思わくに躊躇《ちゅうちょ》したりすることによって妨げられることを嫌うどころか、それらのものを全く顧みないところの強さをもっておる。それゆえに自分自身の利便を擲《なげう》って恐れず、時には自己の身命をも棄てて顧みない人の心において初めて、素直なもしくはナイーブで率直な心は成立する。私は私が尊敬し憧憬する多くの天才の思想や生活を考えるとき、常に彼らの単純さや率直さ、あるいは彼らのナイビテートを思わざるを得ない。彼らのある時には憎らしく思われるほどの、言行の大胆さや図々しさは、多くの人、殊に事物の外形のみを見てそれの本質に探り入ることを怠っている人によって誤解されておるように、彼らの傲慢な心から出たものではなくて、むしろ彼らの単純さと率直さ、あるいは彼らのナイビテートから出たもののように思われる。彼らは世慣れたと自称しまたそのことがたいへん立派なことであるように考えている人たちが重宝がる婉曲や紆説が、彼らの精神力の純粋とまじめと強さと相容れないものであることを無意識的に知っておる。皮肉や洒落や諷刺が無邪気で快活な心からよりも狡猾で陰険な心から生れやすく、またそれが無邪気で快活な心のものである場合においてさえ人をして往々素直に事物を観察し経験する心を曲げしめ、もしくは事物に対するまじめな態度を失わしめやすい事実を見定めることは、そして、鋭さに深さよりもいっそう多くの興味をもちたがる私たちには重要なことである。
もちろん私だって皮肉や洒落や諷刺を悉く否定しようというのではない。素直な心は微笑む快活な心であり、散文的なものよりも詩的なものを好む心であり、また人生には遊戯がなければならず、しかして遊戯は単に手段上の価値ばかりでなくそれ自身の価値をもっており、それゆえに喜劇は悲劇とともに価値があると信ずる私は、無邪気で快活な心の微笑みであり戯れである皮肉や洒落や諷刺の愛すべきことを知っているはずである。ただ私が恐れるのはそれらのものがあまりに多く繰返されるとき、事物を素直に見る心と事物にまじめに対する態度とを失わせやすいことである。私が求める快活や微笑や戯れは、いつでも健康な生命の活動から自ら流れ出るところのものである。
一二
個性とは傲慢な心には知られないようなものである。それは反省のみが与《あずか》り得る知識であり、しかして反省は謙虚なる心においてのみ可能である。限りなきへりくだりをもって自己の正しき姿を観じまた他の人々を尊敬し愛するとともに、どこまでも剛《つよ》く健《すこや》かな心の活動をもって本当に自己の衷に見出されたものを維持し発展することができる人は、真に個性の何たるかを理解することができる。個性の真の認識は心理学の知識ではなくて反省の知識である。そしてそれゆえに個性の正しき認識は概念をもってしては十分に現わすことができない闇そのものに関する真理の一部分に属しておる。徒《いたずら》に外に向って内に向うことを知らない人、無暗に他人に対抗しようとして自己に還ることを忘れた人、それらの人に対しては個性の理解の扉は堅く閉されておる。なぜならば真に自分自身を理解しない人が他人の個性を理解し得ようなどとはとうてい信ずることができないから。自己に目覚める心はやがて他人に目覚める心である。自分自身に次第に深く目覚めてゆくに従って、私たちの他の人格を理解する深さと広さとはそれだけ次第に増大してゆくのである。いわゆる世故に長《た》けた人、世慣れた人が自分らのみが他の人々を本当に理解しておりまた他の人々を愛する権利をもっておるかのように考えて振舞っておることほど私には滑稽なものはない。それらの人々は先生ぶった、先輩ぶったもしくは兄貴ぶった口の利《き》き方をしながら私にしばしばいった、「君の心はよく分っている。私がいいように計ってやるから心配することはない。」しかし私は彼らの庇《かば》うような態度や彼らの情熱のない口の利き方から、彼らが私を彼らの人間一般に対する先入主見に従って理解しており、彼らの愛や同情が他人の弱小を憐むことにおいて見出される自己の優越の感じを味うことの快さに本《もと》づいておることを直感せずにはいられなかった。また本当の理解や愛がそんなところに決して成立しないものであることを私は信ぜざるを得ないから、どうしても心から彼らに感謝することができなかった。
個性の理解の強さと深さとは反省の力の強さと深さとに本《もと》づき、しかして性格の強さと深さとは主としてそれらのものに本《もと》づくのである。私は陰鬱な型に属するセンチメンタリストがしばしば自分の性格を非常に深いもののように思っているのを見た。彼らは大抵いわゆる近代的の憂愁と敏感とを深い性格の人の特徴として考えているらしい。私も憂鬱をもって偉大なる性格の人の唯一ではないが唯《ただ》一つの特徴であると考えること、また彼らの性格の強さと深さとがそこに根柢をもっておるとすることを非難しようとは思わない。ただ私は私たちに陰鬱な感じを与える人に、浅くはあるが濁っているために暗く感ぜられる人とその人が奥底にもっておる深い闇のゆえに暗く感ぜられる人との二つの種類があることに注意したい。前者には素直さと純粋さとがない。彼らの心は拗ねて卑屈であり、自由を失って執拗であり、堕落させた感情の中へ自己を溺れさせて濁った涙を徒に外に向って流そうとする。私は感情や情調や気分や涙の価値を誰にも劣らず認めているつもりであるが、私自身が経て来た経験からそれらのものが純粋さを失うとき、いかに私たちを堕落させるものであるかを痛切に感ぜざるを得ない。また私は敏感がいかに多くの天才の特質であったかを誰よりも以上に承認する。しかし私はそれらの天才の感情や情調や気分や涙がいかに純粋であり、生命的であり、自由であるかを知っている。私はヒステリー女の感傷を退けて無邪気な子供の美しき感傷に憧れる。いわゆるセンチメンタリストには性格の強さがないのはもちろんであるが、彼らにはまたそれの深さもない。
これに反して偉大なる人格の闇と憂鬱とは生命そのもの、私たちの奥底に横たわる意志そのものの純粋にして自由なる闇と憂鬱とである。あるいは彼らの深く掘り下げてゆく心がかかる闇と憂鬱とに面と向ったとき、もしくは彼らの強い直観力が殆んど無意識的にかかる闇と憂鬱とを感ずるときに自ら生れるところの闇と憂鬱とである。それらのものは彼らにおいて生命であり力であるがゆえに、時にはそれらのものは自分自身を否定して巨大なる光輝となって輝き出でる。それゆえに彼らの根柢にある闇と憂鬱の海はそれが白波となって砕けて表面を蔽う快活のために見誤られ見遁されることがしばしばある。彼らにおいてこそ性格の強さと深さとは見出されるのである。
あたかも岐路へ踏み入ったかのごとく感ぜられる私の上の考察は、真の個性は自己の表面に漂うものよりもその根柢に厳存するもの、外に拡る心よりも内に潜む心にそれの本質を有するものであることを理解する上に幾分か役立つであろうと思う。自己に覚めたといい、自己に生きておるといって誇りげに振舞っておる世の多くのいわゆる新しき人を見るに、彼らは彼らにおいて特性的なもの、病的なもの、畸形なるもの、もしくは単に表面に漂う気分をあたかも真の個性のごとく考えて、それらのものを弥《いや》が上に主張しようとするのである。彼らの多くは剛情で片意地で尊大である。徒に他に対立し拮抗して行こうとする彼らの心は険しくて安静を欠いている。彼らは彼らの他に徒に対抗してゆこうとする険しい心が、彼らを駆らずにはおかない限りなき運動をもって旺盛な心の活動と思い誤り、彼らの不安と焦躁との中に動揺して止《や》まない気持を素敵に勇敢な気持だと考え誤っている。けれど真の活動には自由な安静が感ぜられ、真に勇敢な気持には反面に謙虚な気持が伴っている。また真の個性の本質は普遍的なるものが自ら分化発展してとったところの形において見出されるのである。個性の根柢は普遍的なるものにある。しかして普遍的なる
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