ては真に偉大なる哲学があり得ないようなものである。かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば、彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識にせよ永遠なるものと関係しておるのであるから、その限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれがいかなるところにあろうとも、いつでも子供のように夢みている。世なれた利口な人たちは親切そうに私にたびたびいってくれた、「君はトロイメル(夢想家)だ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」
私は私が観念し、そしてもし私が恵まれるならばそれでありたいような哲学者について語った。私はそれがはたして正しい真理であるか、また一般の人々が求めておるところのものであるか知らない。ただ私の要求するところを通俗な言葉で最も簡単に現わすならば、私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである。
さて私がいま上に考えた哲学者の三つ
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