、私は私が懐疑主義者であるがゆえに私は他の人たちよりも優秀な人間であると思っていたことであった。私はひとかどの思想家のつもりで他のまじめに学業に励み教訓に忠実な人々を蔑んだ。私たちがそれらの人々を呼んだ名は「古い頭の男」もしくは「意気地のない男」というのであった。けれども懐疑主義はどんな理由からでも他人を攻撃することができないはずではないか。懐疑主義が売物にされることほど不合理なことはない。懐疑主義はそれが正当に解された場合においてさえ語られざる哲学においてのみ許され得る思想である。いまから考えてみればあの時代の私の懐疑は新思想を担《かつ》ぎ廻って新しがらんがための懐疑であり、自己の虚栄心に媚《こ》びんがための、あるいは人が自明のことと承認していることをも疑い得る能力が私にあることを示さんがための懐疑であったように思う。
語られざる哲学の正しき懐疑主義者は謙遜であり、まじめでなければならないのであるが、その頃の私の心は傲慢であったし私の生活はふまじめであった。単に疑わんがために疑っていた私の不徹底な懐疑主義は、よく起るように自然主義と結びついてそれを弁護する役目をさえ演じた。語られる
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