の考察は、真の個性は自己の表面に漂うものよりもその根柢に厳存するもの、外に拡る心よりも内に潜む心にそれの本質を有するものであることを理解する上に幾分か役立つであろうと思う。自己に覚めたといい、自己に生きておるといって誇りげに振舞っておる世の多くのいわゆる新しき人を見るに、彼らは彼らにおいて特性的なもの、病的なもの、畸形なるもの、もしくは単に表面に漂う気分をあたかも真の個性のごとく考えて、それらのものを弥《いや》が上に主張しようとするのである。彼らの多くは剛情で片意地で尊大である。徒に他に対立し拮抗して行こうとする彼らの心は険しくて安静を欠いている。彼らは彼らの他に徒に対抗してゆこうとする険しい心が、彼らを駆らずにはおかない限りなき運動をもって旺盛な心の活動と思い誤り、彼らの不安と焦躁との中に動揺して止《や》まない気持を素敵に勇敢な気持だと考え誤っている。けれど真の活動には自由な安静が感ぜられ、真に勇敢な気持には反面に謙虚な気持が伴っている。また真の個性の本質は普遍的なるものが自ら分化発展してとったところの形において見出されるのである。個性の根柢は普遍的なるものにある。しかして普遍的なる
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