向へ導いてくれるに相違ない。)
さて、あたかも私が楽しみを絶対に排斥するかのごとく見える理由は次の通りである。楽しみは多くの場合私たちを不まじめにする。それは私たちを事物の表面に軽く触れてゆくことに満足させてそれの内奥へはいって行って深く体験することを忘れさせる。それは私たちの反省の強さを失わせ従って私たちの性格の根強さをなくする。それは私たちを徹底と努力と活動とに励まさないでかえって不徹底と無気力と遊惰とに導く。けれどそれにも関せず私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである。豊饒《ほうじょう》な土地に卸《おろ》された種が伸びやかに生長して美しき花を咲かせやすいように、よき周囲の状態に置かれた心は純粋にまた正直に育って行って美しき夢を結びやすい。それは博大と自由との心に親しみやすい。かくして私の結論は次のような形をもって表わされても差支えないように思われる、私は楽しみを欲する、けれど弱小な楽しみよりも偉大なる苦しみを求める。しかしそれよりも以上に偉大なる楽しみを喜ぶ。あるいは私は偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみを憧れる。
素
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