ののように思われる。私は私たちが最後の完成に達する日すべての苦しみと悲しみとが征服されており、あらゆる人間性が美しき解放を得て円満に調和し、福と徳とが完全に一致すべきことを信ぜずにはいられない。それにもかかわらず私が特に苦しみと悲しみとを高調するゆえんは、一方では現実の人間性がいかに不完全にして罪悪に充たされておるかを感ぜざるを得ず、他方では世のいわゆる楽しみがいかに多くの悪の根源となっておるかを見ざるを得ないからである。私たちが尊敬する体験深き人々が幾度となく繰返しておるように、私たちは徹頭徹尾罪をもって汚された弱く小さいものであって救済を要求せずにはいられないようなものである。いやしくも真に生きようという人は自己の醜さを悲しみ嘆かずにはいられない。あるいは逆に苦しみ悲しむ人はまじめであることができるのである。そしてまじめな人のみが本当に自己を反省することができ、従ってよき生活を生きることができるのである。現実の人生はそれの本質上からいってまじめなものは苦しみを感ぜずにはいられず、苦しみを感ずるものはまじめにならざるを得ないのである。しかのみならずかくのごとき本質的な罪苦の意識ばかり
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