る生活の中からも罪と悪とを引出して感ぜずにはおられない深さと鋭さとをもっているように見える。それゆえに彼らの生活には私たちが感じ得る限りでは偸盗《ちゅうとう》や姦淫《かんいん》がなくとも、彼らの魂の深さと鋭さとはそこに偸盗や姦淫を感じ出さずにはいられなかったのではなかろうか。
 罪と悪、寂しみと悲しみ、それらは単に私たちが感じ得る人生の表面においてでばかりでなく、秀れた魂が到り得る人生の本然においてでさえ見出されずにはいられないもののようである。もしそうでないとすれば他力の信仰は畢竟|空言《そらごと》でなければならぬ。しかのみならず、法律でさえ明かに罰するような大罪悪を実際に行った人でなければ真に罪の意識を得ることができず、従って大善人となることが絶対に不可能であるとするならば、人間は善であらんがために必然に悪をなさねばならないこととなり、しかしてその限り人間は決して完成に到達し得ないこととならなければならない。しかるにもし私たちに完成の可能が否定されねばならぬとすれば、私たちの善を求むるということ、一般に生活するということの意義が否定されねばならないと思う。私は現在の人生においては罪悪が避け難い運命であるという悲しい事実を安らかに認めるとともに、いつかは私たちの罪悪が悉く善にまで高められ、もしくは善によって抱擁されるという美しい希望をほのかに孚《はぐく》もうとする。

     一一

 よき生活を生きようとする人が最初に獲得しなくてはならぬものは素直な心である。そして素直な心の特質は謙虚と剛健とである。素直な心は何より第一に虚栄心と自負心とを退けつつ自己の正しき姿をへりくだる強さをもって眺めようとする。それの剛《つよ》さはそこにいかなる醜さが展開されようとも少しも容赦することなく、それのへりくだりはそこに見出されるいかなる悪をも弁解しようなどとはしない。それゆえに真の懺悔は素直な心においてのみ可能である。それは自己の罪を正直に告白することによって、社会からばかりでなく愛する友だちや兄弟からまでも卑しめられ見離されようとも、自己の罪を大道で叫ばずにはいられない心である。それはパウロが「われは罪人の頭なり。」といった心を心とする。私たちのよき生活はかくのごとき素直な心の反省によって自己を正視して、すべての虚栄心と自負心とを棄てるところに本当に始るのである。かくて素直
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