我より離し給へ、されど我が意のまゝをなすにあらず、唯みこゝctまゝになしたまへ。」という言葉などに現われた絶対に謙虚な心のみがすべての体験を意味あらしめることができる。自己の罪悪を小賢《こざか》しい智恵と言葉とを弄して弁解するよりも、人生の悪を身に徹して体験したトルストイが、晩年に性慾や結婚やを否定しあるいは額に汗して食うという主義を実行した心持の方がどれほど貴いものであろう。
第二に私の思想は単に外に拡りゆく心よりも内に向って掘り下げてゆく心が私たちには特に必要であるということを主張せんがために力説されるのである。好奇心や虚栄心から自己の経験と知識の領域とを無暗に拡げつつ限りなき運動と動揺とに心を委せて、それらの経験や知識の表面に触れて、それらを自己の魂まで持来して味わない人をジレッタントと呼ぶならば、私はかくのごときジレッタントを退ける。これに反して秀れた魂はどんな瑣末《さまつ》なことに関係してもその本質を体験することができる。それは私たちが無智から出た不注意と無頓着との間に投げ棄てておる事柄においても深い意味をしみじみと味うなおやかさを持っておる。世のいわゆるジレッタントは私に反対するときいつでも、レオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテやを指摘するに違いない。いかにもダ・ヴィンチやゲーテなどは生活の広い領域を征服し体験していたに相違ないが、彼らの驚くべき魂は彼らが関係した悉くの領分において一々普通人よりも深い理解をもつことができたのである。彼らの偉大は広さのために深さを失わず、拡張のために充実をなくせず、普及のために熱中に欠けるようなことがなかったのである。私たちは彼らにおいて少くともいわゆるジレッタントに共通な性格の弱さを見出さない。自己の中心を見失った、魂の根強さと心の旺盛な活動とをもっていないジレッタントには、ゲーテが自己発展は自己保存であるといった言葉の正当な意味は理解されそうにもない。
また他の人々は気遣《きづかわ》しげに問う、「一体大きな悪事を自分でなしたことがないものに悪の本当の意味は分っているであろうか。聖者たちの生活は罪の深い意味を見出すためにはあまりに清かったのではなかろうか。」けれど人生は完全としか思えない場合にも罪から全く自由になることができないほど悲しいもののように思われる。聖者たちの偉大なる魂は、私たちには最も正しく、美しく、よく見え
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