の誰でもが、容易に考え及ぶことができることであろう。時処位《ときところくらい》に従って種々雑多に変化すべき具体的な生活をそのまま記述し分析し説明しようというのは全く不可能なことであり、またたとい可能であるにしても無意味なことである。私がここに試みようとするところのものが、かくのごときものでないことは明らかである。私はいま私がよき生活として想像する生活からそれの指導観念の特に重要なものを抽象して来て、それらについて思考を廻《めぐ》らすことによって私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたいと思う。
 まず最初に注意すべきことは、私たちの生活において大切なのは、「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということであるということである。なんとなれば、経験の内容とよばるるもの自身がすでに、多くの人によって誤解されておるように、固定して動かすことができないように存在しておるものではなく、これを経験する魂によって創造されるものであるからである。外面的にみて同一の事柄もこれを経験する人の心に迫る形においては種々に異なっておるのである。同一の芸術作品の前に立って観照し評価する二人の人は根本的には同一の芸術作品を観照しまたそれについて評価しておるのではない。観照はやがて制作である。大家の秘密は形式によって内容を滅却するにあるとシルレルがいったように、秀れた魂はいかに瑣細《ささい》に見える事柄にも深い意味を見出すふしぎな力をもっておる。これに反して鈍い心の所有者はどんなに大きな経験に遭逢してもこれを浸透して輝く光をもっていないから、それは彼にとって何の価値もない黒い塊に過ぎない。
 私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠が次第に満ちて来るのを感じた
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