ものとなり、かつて自由と思われたことがいまは窮屈として考えられるようになった。懐疑と憂愁とについて語った私が、夢と感激とを語るようになって来た。ロマンチストという言葉が、その頃の私を呼ぶに最も適しい名であったであろう。上にもいったように、哲学についての誤った概念に固執していたことと自己の哲学的才能に対して不安を感ずるようになったこととが、私をいま一度文学へ引戻そうとしたけれども、私はそのときでさえ文学において古典的なものを観念していた。哲学においてカントが私の師であったように芸術に関してはゲーテが私の師であった。私の中に次第に貯えられて来た音楽、絵画、彫刻などの観照が、私の芸術観の偏狭を少しずつ破ってそれを芸術的良心の源に尋ねることに貢献した。私はここに私の芸術論を試みることを必要だと考えない。けれど私がこれまでもしばしば用い、そして恐らくこれから後もたびたびpいるであろう「古典的」という言葉の意味について、簡単に考えておくことは必要なことだと思う。
 古典的ということは、これまで種々に正しくまた誤って解釈されて来たが、私はそれの特質として内容と形式との完全な一致、大さと深さとの高き程度における調和などということのほかに、特にその内容と関係してフマニスティッシュということを挙げたいと思う。しかしてフマニスティッシュとはいやしくも人間が生きたまた生きつつある生活、考えたまた考えつつある思想、感じたまた感じつつある感情、欲したまた欲しつつある意欲は、それがいかなる種類もしくは性質のものであるにしろそれらに深き興味と愛とを感じて、それらをそれらの深き根柢にまではいって理解しようとする心である。人間性の徹底的な理解に本《もと》づいた愛は、哲学たると芸術たるとを問わずいやしくもそれが真に偉大なる哲学または芸術たらんがためにはなくてはならぬ重要な精神であると思う。
 私はもうこれ以上語ることを慎まなければならない。そして永い間断たれていた私の最初の思想との交りを、もはやなんらの迂廻もなく続けて行くべき時は来た。

     八

 語られざる哲学の正しき出発点として反省をとるべきことは前にいったとおりである。しからば反省とはいかなることであるか。反省とは自分自身を知るということである。「汝自らを知れ」という古い昔から幾度となく繰返された、けれどそれを身に徹して行うことは非常に困
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