る。彼の厳密な概念の間には永遠なるものに対する無限の情熱が蔵《かく》されている。彼の明るい論理の根柢には見透すことのできない意志がある。永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱《ゆううつ》との海を彼の性格の奥底に湛《たた》えておる。けれどその闇は絶対の無でなく積極的なるものに発展すべき運命を有するものとしての否定である。その憂鬱は持たざるものの憂鬱でなく生まねばならぬものの憂鬱である。あるいはヒステリー女《おんな》の憂鬱ではなくて健康な孕《はら》み女《め》の憂鬱である。すなわち彼の衷に秘められた闇と憂鬱とは光と快活とを生みそして育てるところの闇と憂鬱とである。そのアーヌングに充ちた闇の中から時に巨光が輝き出て広い行手を示す。その深い憂鬱の海から華かな大きな花が咲き出でる。かくのごとく深くして根強い魂が発展して、自らとった論理の精緻《せいち》や統一の完全こそ真に偉大なる哲学には決して欠けてはならないところの形式である。剛健な、それゆえに悩める魂の力強さが内面的に要求する論理は、いわゆる思想家と自称する人々が排斥するように哲学に不必要なものではなく、これがなくては真に偉大なる哲学があり得ないようなものである。かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば、彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識にせよ永遠なるものと関係しておるのであるから、その限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれがいかなるところにあろうとも、いつでも子供のように夢みている。世なれた利口な人たちは親切そうに私にたびたびいってくれた、「君はトロイメル(夢想家)だ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」
私は私が観念し、そしてもし私が恵まれるならばそれでありたいような哲学者について語った。私はそれがはたして正しい真理であるか、また一般の人々が求めておるところのものであるか知らない。ただ私の要求するところを通俗な言葉で最も簡単に現わすならば、私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである。
さて私がいま上に考えた哲学者の三つ
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