れざる哲学の学徒のみがよき語る哲学の学徒たり得る。彼らの学問は恐らく地に這う葛《かずら》のように広く拡ることができても、天に向って雄々しく伸びてゆくことができないであろう。なぜならば学才を伸ばしもしくは深めることができるものはただ秀れた魂のみであることを私は信ずるのであるから。彼らが、しばしば起るように、堕落して、純粋な知的興味からでなく名誉心や好奇心から、あるいは少くとも習慣的に雑誌や書物の数を殖やしたり文献の量を増したりするようになれば、彼らは単にそれによって自己の魂を高めることができないばかりでなく、またそれがために後に出ずべき正しき研究の道を塞ぎもしくは同僚や後輩の有効に用いらるべき時間を浪費する。こうなれば彼らは意識せずして不道徳を行いつつあるのである。学者的良心はいかなる場合でも鋭敏でなければならない。
魂の秀れたる哲学者とは永遠なるものに対する情熱の深き人々である。彼らの心は永遠なる理想や価値、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問の憧がれとそれらに対する努力とにおいて喜びに盈《み》ち溢れつつ悩んでいる。彼らは外に向う心よりも内に還る心、人を教えようという心よりも自ら求めようとする心が真の哲学の根柢として尊ぶべきものであることを知っている。彼らは語られる真理よりも語られざる真理をさらに重んずる。ただ悲しいことには彼らは論理的な思弁に短であるがために彼らの清く深い体験を概念的に組織し統一する力を欠いている。けれど彼らの正しき心は、「自己の能うことはどこまでも研究し、自己の能わないことは静かに尊敬する」ことを心得ており、正直と無邪気とを失うことがいかに悪いことであるかを知っておるから、彼らは自己の魂とともに他人の魂をも高めることができる人々である。教えようとしない心は最もよく教うる心である。へりくだる心は最も鋭く人に迫る心である。いかにも彼らの哲学は論理の厳密と連絡の緊密とを欠いているであろう。けれどもそれらのすべてにかかわらず、彼らの哲学はふしぎに人を感動させずには措かないものをもっている。規則正しい序列を作って寄せて来る数限りない波よりも突然の風に天に冲するばかり高まった唯一つの波がいっそう速にまた確実に巌を砕く力を具えているのである。
真に偉大なる哲学者とは、私が上にあげた二つの条件を円満にして高き程度の調和において兼ね具えた人に与えらるべき名であ
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