質は活動にある。それゆえにあるものが偉大なる力を発揮してはたらけばはたらくほど、そのものの実在性と価値とは大である。まことに眠れる獅子は吠ゆる犬に及ばない。誤りはその活動が正しき方向に向ってまたにおいて行われないというところに存する。誤っているのは活動そのものではなくして理想のない盲目的な活動である。頭で認識するよりも心で確信することがさらに大切であること、自己の良心で判断してみないことは無暗に受容したり排斥したりしないこと、虚栄心や名誉慾やは決して正しき真理に導かずしてただ真理に対する恐れざるしかしてやさしき愛のみがそれをなすこと、これらの点を体認して、外向的よりもむしろ内向的活動がいっそう重んずべきものであることを知っている人にとっては、活動はそれが大であればあるほどよき活動である。かようにして活動が理想の光によって照らされるとき、陰鬱な気持は晴れて快活となり、宿命的な感じは退いて自由創造的となり、悩しき反抗はやさしき抱擁に道を譲るのである。正しき懐疑はすべての否定であるがゆえに、それは絶大なる活動である。自己の魂のすべてをあげての奮闘である。けれどふしぎにもそこには傲《おご》り高ぶる心がなくしてへりくだるやさしき心がある。
第一のものと関連して私を懐疑的から遠ざけたものは私の反抗する心であった。私は剛情で片意地であった。それに悪いことには少しばかりの才能を持合せていたので、私は多くの人に起るように何にでも反対したり反抗したりして自己の才能を示そうとした。私は自分の意志することはなんでも成遂げられると信じていた。そして私は私の注目に値したすべての種類の人になることを次から次へと空想して行った。政治家、弁護士、法律学者、文学者、批評家、創作家、新聞記者、哲学者……。ただ私が初めからなってみようと思わなかったことが二つあった。それは商売人と軍人とである。後に私の反抗は習慣的になってしまって、なんらの動機もなく、またなんらの理由もなしに、ただ無暗と人に反対したり喰ってかかったりした。私はそうしたあとで本当にやるせない寂しさの中に自己の醜悪を感ずるのであったが、習慣から脱することは他から考えられるほど容易なことではなかった。私はあたかも傷ついた野獣のような姿をして、ただなんでもいいから自己を通そうとした。私の友だちは私のこの性質を「押しが強い」と名づけた。反抗は外に向
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