けではない。しかしながら実際生活においては、思想の価値規定は埋没されて認識されることなく、思想は単にその性格に従ってのみ理解されているが故に、まさしくこのことから容易に、人々が善い思想をもって直ちに真なる思想であると考えるに到る、ということがしばしば生ずる。善い思想だから、それは真でなければならぬ、という風に、無意識的にであるにせよ絶えず推論されている。かくのごときことは真理ということをのみひたすらに問題とすべきはずの学者の間にあってさえ存在するのである。彼らは自己の思想を真という価値においてでなくかえって善という性格において意識していることがしばしばである。それだからこそ或る者は彼の思想が理論的に反駁されればされるほど、理論的にその欠陥が指摘されればされるほど、かえってますますこれを弁護するに到る。彼はこの弁護において或る種の道徳的義務を感じていよいよ興奮する。彼の議論は義憤に変る。学者は今や憂国の志士として現われる。彼は自己と反対の思想を有する者をもって何らか危険な者、下劣な者、不道徳な者であると見なすに到る。我々は我々の経験において独断論者が最も多くの場合このような現象形態をとっ
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