ったり偽であったりするが、我々はそれを善い思想であるといったりまたは醜い思想であるといったりすることを許されない。近代の認識論はこのように説くにもかかわらず、現実の生活においては、我々は絶えず、一定の思想を善い思想であると呼び、または悪い思想であると称している。それが現実である。むしろ真なる思想、偽なる思想という言葉よりも、善い思想あるいは悪い思想という言葉を人々は一層多く実際生活のうちでは用いているように見える。例えば、かの思想善導という語をとって考えてみよう。思想善導というのは、真なる思想へ人々を善く[#「善く」に傍点]導くということでなく、かえって善い[#「善い」に傍点]思想へ人々を導くということを意味している。もしそれが真理へ向って善く誘導するということであるならば、それはそれが今現実にとっているような形態をとって現われ得ないはずである。いかなる思想が真理であるかはただ研究を俟《ま》ってのみ決定され得ることであるが故に、その場合には、ひとが思想善導の名のもとに思想の自由なる研究を取締ったり、禁止したりするばかりでなく、さらに進んで思想の研究そのものに対する興味を種々なる方法でほ
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング