総じて真理が矛盾を媒介として発展する生命であることを把握しない者、かくのごとき人々は、自己の思想に反対し、対立する思想の現われるとき、それはただ彼の思想にとってのみ危機であることを忘れて、かえってそれが一般に思想そのもの、真理そのものの危機であるかのごとく見なし、いたずらに思想の危機を叫ぶのである。彼らにとって否定は単なる否定であり、矛盾は単なる矛盾の意味しかもたない。彼らは抽象的思惟に固着して言う、真理は真理であり、虚偽は虚偽である。そして彼らは他人だけが誤謬と錯誤に陥る者であって、自分はこれに反して最後究極的な、絶対決定的な真理の所有者であると考えている。このような人々が、自己の思想に矛盾する思想に出会ったがために、思想の危機を叫べば叫ぶほど彼らは思想そのもの、真理そのものをいよいよ抽象的ならしめ、非実現的ならしめ、かくてそれの生命を奪って死滅せしめるのである。思想そのもの、したがって彼ら自身の思想をも危機に沈ませる者は、思想の危機を単なる危機と見ることしかできぬ彼らである。思想の本質的なる相対性を認識している者こそかえって思想の生命の発展の絶対性を肯定する者である。かかる人間が自己批判的であるに反して、彼らは独断論者である。彼らは自己の思想を絶対化し、永遠化する。彼らはおそらく人類歴史のなお端緒にある者であり、したがって今後彼らの思想を訂正するであろう人間は、彼ら自身がその思想を訂正した人間に比し、その数において比較にならぬほど多いであろう、ということを彼らは思ってみない。思想の危機の叫びをもって我々に向って来るのはいつでもこのような独断論者である。しかるに独断論とともに我々は純粋に理論的な領域から他の領域へ移されているのを見出す。我々は独断論が本質的には理論的な立場でないことを発見するであろう。純粋に思想する者である限り、何人も自己批判的ならざるを得ない危機に際して、思想の危機の問題に関して何故にかくも独断論者がなお存在するであろうか。
私はこれまで思想を主として真偽という方面からのみ考察して来た。真理と虚偽は、哲学上の用語法に従うならば、思想の「価値」である。あたかも美醜が芸術に属する価値であり、善悪が道徳のになう価値であるように、真偽は思想の有する価値である。しかもそれはこのものにのみ固有な価値である、と哲学者は考えている。したがって或る思想は真であったり偽であったりするが、我々はそれを善い思想であるといったりまたは醜い思想であるといったりすることを許されない。近代の認識論はこのように説くにもかかわらず、現実の生活においては、我々は絶えず、一定の思想を善い思想であると呼び、または悪い思想であると称している。それが現実である。むしろ真なる思想、偽なる思想という言葉よりも、善い思想あるいは悪い思想という言葉を人々は一層多く実際生活のうちでは用いているように見える。例えば、かの思想善導という語をとって考えてみよう。思想善導というのは、真なる思想へ人々を善く[#「善く」に傍点]導くということでなく、かえって善い[#「善い」に傍点]思想へ人々を導くということを意味している。もしそれが真理へ向って善く誘導するということであるならば、それはそれが今現実にとっているような形態をとって現われ得ないはずである。いかなる思想が真理であるかはただ研究を俟《ま》ってのみ決定され得ることであるが故に、その場合には、ひとが思想善導の名のもとに思想の自由なる研究を取締ったり、禁止したりするばかりでなく、さらに進んで思想の研究そのものに対する興味を種々なる方法でほかへそらそうなどとすることは出来ないはずである。しかるに思想善導が実際においてはこのような形態のものであるとするならば、そこで問題となっているのは、なんら思想の真偽ではなく、かえって思想の善悪であるのでなければならぬ。すなわち、或る思想は取締られ、圧迫さるべきであると考えられるのは、それが悪い思想であり、危険な思想であると、人々の見なしているのによるのである。このように現実の生活の中においては、思想は真偽という理論的価値のほかになお善悪というがごとき規定を具えている。これは明らかである。私はかかる規定を思想の「価値」と区別して思想の「性格」と名づけようと思う。思想の性格を表現する言葉には、善、悪以外に、危険、穏健、反動的、過激的など、その他のものがある。思想は現実においてすべて性格的である。否、我々の日常の生活にあっては、真理と虚偽なる思想の価値は蔽い隠されてしまって、思想はすべて性格的なものとして生きているのがつねである。
ここに注意すべきは、思想の価値と性格とが必ずしも相応しないということである。善い思想が必ずしも真なる思想であるわけでなく、危険な思想が必ずしも偽なる思想であるわ
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