ることができた。即ち氏に依れば、歴史哲学は解釈学にほかならないので、解釈学がどのようなものであるかは自分で古典の解釈に従事することを通じておのずから習得することができるのである。大学での氏の講義もテキストの解釈を中心としたもので、アリストテレスとか、アウグスティヌスとか、トマスとか、デカルトとかの厚い全集本の一冊を教室へ持って来て、それを開いてその一節を極めて創意的に解釈しながら講義を進められた。私は本の読み方をハイデッゲル教授から学んだように思う。
 シュワン・アレーに定められた教授の宅へは私も時々伺ったが、そこにドイツ文学の古典の全集がぎっしり並んでいたのが特に私の注意を惹《ひ》いた。それを私はいささか奇異の感をもって眺めたのであるが、昨年『ヘルデルリンと詩の本質』という氏の論文を読むに至ってその関係が明瞭《めいりょう》になった。最近氏の講義には芸術論が多いということである。氏は一度フライブルク大学の総長になられ、あの『ドイツ大学の自己主張』にあるような思想を述べられたこともあるが、ナチスとの関係が十分うまく行かなかったためか、総長の職は間もなく退いてこの頃では主として芸術哲学の講
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