Mじてゐる。」ゲーテの有機的世界観にとつてはどこまでも自然がその地盤であつた。これに反し弁証家ヘーゲルにとつては歴史がそのエレメントであつたのである。弁証法の欠くべからざる要素をなす飛躍乃至非連続の思想の如きは、ゲーテには堪へ難きものであつたに相違ない。彼はヘーゲルの哲学を有機体説的に解釈し得た限り――それは実際このやうに解釈され得る方面を多分に含んでゐる――それを尊重した。
かくして我々はゲーテにおける歴史の概念を探り、それを Typologie, Morphologie, Monadologie, Organologie, Mythologie 等の概念によつて性格付けて来た。これらの概念は彼において相互に繋り合ひ、貫き合つてゐる。それらの地盤をなすものはまさに自然であり、それらはまた人間の観想的態度と内面的に結び付いてゐた。かかる自然概念の哲学的特質は、私の歴史哲学の中で明かにしておいたやうに、それにおいては「存在」と「事実」とが単に内在的連続的に見られて、同時にまた超越的非連続的に捉へられないといふことである。換言すれば、そこでは存在と事実との関係が弁証法的に把握されてゐない。歴史的意識が彼に存した限り一面的であつたのもこのためである。却《かえっ》てゲーテの自然はこの場合スピノザ的自然と落ち合ふであらう。自然は「自己自身を享受せんがために、自己を分化展開した。」神の無限なる本質はただ生成の不断の流れにおいてのみ自己自身を享受し、自然はそれにおいて我々がかかる展開を我々人間の認識にとつて達せられ得る文字において、即ちシェムボル的に、読み取ることのできる開かれた書物である。「そしてあらゆる犇《ひし》めき、あらゆる闘ひは主なる神における永遠の安らひである。」
五
尤《もっと》も我々の信ずるところによれば、現実的な歴史の概念は或る自然の要素を欠くことができない。しかもそれは単に外的な自然といふ意味においてのみではないのである。現実的な歴史は、我々の用語に従へば、自然の「存在」と交渉するばかりでなく、「事実」としての自然的なものを含んでゐる。我々はこのやうな「事実」としての自然的なものを一般に運命の概念をもつて言ひ表はした。そこで問題は、かかる意味における自然的なもの、運命的なものの概念がゲーテのうちに見出され得ないかどうかといふことである。我々はこの問題に肯定的に答へて、かの 〔das Da:monische〕 の概念が恰《あたか》もかかるものに相応することを示さうと思ふ。デモーニッシュなものとは一般的に云つて歴史における自然的なものを意味した。ゲーテがこの概念について述べたのは、彼の自然哲学上の諸著作においてではなく、却てつねに歴史に関係してであつた。この語は所々に現はれてゐるが、特に詳細に説明されてゐるのはゲーテの自伝なる『詩と真実』の中においてである。
『詩と真実』の第二十章に記すところによれば、デモーニッシュなものはただ矛盾においてのみ運動し、顕現され、従つて何等の概念、如何なる言葉のもとにも捉へられ得ぬものである。曰く、「それは神的でなかつた、なぜならそれは非理性的に見えたから。それは人間的でなかつた。なぜならそれは悟性をもたなかつたから。それは悪魔的でなかつた、なぜならそれは慈悲的であつたから。それは天使の如きものでなかつた、なぜならそれは往々他の不幸を愉快がるのが見えたから。それは偶然に似てゐた、なぜならそれは何等の帰結も示さなかつたから。それは摂理に似通つてゐた。なぜならそれは連関を示唆したから。我々を制限すると見えた凡《すべ》てのものもそれにとつては貫き通し得るものであつた。それは我々の存在の必然的な諸要素を気儘《きまま》に処理するやうに見えた。それは時間を収縮し、時間を延長した。ただ不可能なもののうちにあつてのみそれは得意であり、可能なものを軽蔑して斥《しりぞ》けるやうに見えた。」かかるデモーニッシュなものは「主として人間と最も不思議な関係をもち、そして道徳的世界秩序と相対立せぬまでも、それと相交叉する力を形作つてをり、かくて一を経とし、他を緯と見做すこともできやう。」即ちゲーテによれば、デモーニッシュなものはイデー的なものではなく、寧ろ自然的なものであり、偶然的なものでありながらなほ且つ必然的なものである。また彼はそれを或る全体的なものと考へ、建築の効果の説明に際して、「全体の効果はつねに我々がそれに服するデモーニッシュなものである。」とも云つてゐる。更に彼はデモーニッシュなものはあらゆるライデンシャフトに伴ふのがつねであると述べた。それはもちろん或る否定的なものの意味を離れないけれども、決して単に破壊的に否定的なのでなく、却て「全く積極的な活動力のうちに現はれる」ものである。従つてメフィストフェレスはデモーニッシュではない。ところでこれらの規定はそれをもつて我々が本来の運命的なものを最もよく規定し得るものではなからうか。ゲーテによれば、デモーニッシュなものは先づ個人に結び付いて現はれる。然し凡ての個性的なもの、特性的なものがデモーニッシュなのではなく、寧ろそれは歴史的に重要なものにおいて出会はれるのがつねである。それは「好んで重要な個人に、殊に彼等が高い地位を有する場合、結び付く。」「人間がより高く立つてをればをるほど、それだけ益々多く彼はデモンの影響のもとに立つてゐる。」ゲーテは個々の人間について、例へばフリードリヒ大王、ペテロ大帝、ナポレオン、カール・アウグスト、バイロン、ミラボオなどをデモーニッシュと呼んだ。デモーニッシュなものはこのやうに特にいはゆる世界史的個人において顕現する。然しそれは単に個々の人間においてのみでなく、出来事においても経験される。ゲーテは彼とシラーとの際会をかかるものと考へた。「かやうにして私のシラーとの知り合ひには全く或るデモーニッシュなものが支配してゐた。我々はもつと早くも、もつと晩《おそ》くも際会することができた。然るにそれが丁度、私がイタリア旅行を終へそしてシラーが哲学的思弁に倦き始めた時代であつたといふことは、重要なことであり、二人にとつて最も大きな効果のあることであつた。」そればかりでなく、デモーニッシュなものは更に社会的なものとしても経験されるのである。即ちゲーテはかの自由戦争について、「一般的な窮迫と一般的な侮辱の感情とが或るデモーニッシュなものとして国民を捉へた。」と云つてゐる。我々のいふ「事実」としての自然的なものは単に個人的なものでなく、また社会的なものである。そして我々はそれが個人的としては「ライデンシャフト」に、社会的としては「パトス」に伴ふといふ風に区別することもできやう。
このやうにしてデモーニッシュなものは特に歴史と関係をもつてゐる。それは自然的なものであると云つても、それなくしては歴史の概念も現実的に構成され得ないやうな歴史における自然的なもの、即ち運命的なものを意味した。またそれは自然的なものであると云つても、外的世界に属せずして、却て内的自然として捉へられた。外的世界も我々にとつて或る意味では運命的なものであり、ゲーテもそのやうに考へた。然しそれはダイモーンと云はれずして、彼によつてテュケーと呼ばれた。このものは本来的な運命ではなく、寧ろ非本来的な運命であり、本来的な運命はデモーニッシュなものである。デモーニッシュなものも或る意味では偶然的なものであるけれども、然しそれはテュケー即ち外的な偶然でない。外的世界は固《もと》より我々にとつて単なる偶然ではなく、却て必然的なもの、強制的なものを含んでゐる。かくの如き外的な必然もしくは強制をゲーテはアナンケーといふ語をもつて現はした。デモーニッシュなものも或る意味では必然的なものであるけれども、それはアナンケー即ち外的必然ではない。アナンケーも固より運命のひとつの形態であるが、然しそれは非本来的な運命の形態であつて、本来的な運命即ちデモーニッシュなものの形態ではないのである。
かくて我々はデモーニッシュなものの概念を現実的な歴史の概念の欠くべからざる要素として獲得し得るとしても、それはまさにかかるものとして上に述べたが如きゲーテの根本思想とは明かに一致し得ないものを含むであらう。従つてそれはゲーテにとつて当然哲学的に深められ、彼の根本思想と調和され、統一さるべきものでなければならなかつた。そして我々は彼の詩[#ここから横組み]”Urworte――Orphish“[#ここで横組み終わり]をもつてかやうな統一を最もよく表現せるものとして理解することができやう。ゲーテはもと※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ンケルマンの美的観念を通じてギリシア的古代についての明朗な形象を形作つてゐた、この形象の本質的な要素は、オリュムピアの輝ける神々の世界の「高貴な単純さと静かな偉大さ」であつた。然るに一八一七年十月九日付で彼はクネーベルへ宛て、彼がヘルマン、クロイツァ、ゼガ、ヴェルカー等の神話学者により「オルフィク的闇」の中にまで陥つたといふことを書いてゐる。これらの神話学者の仕事はその発展においてシェリングの『サモトラケーの神々』についての論文から、バコーフェンの『古代世界の女性支配』、ローデの『プシュヘー』そしてニイチェの『悲劇の誕生』にまでつらなるものである。云ふまでもなく、「かの憂鬱な秘密」をそのままにしておくことはゲーテの本性にふさはしからぬことであつた。彼は「漠然とした古代を再び精粋化し」、「死んだ文句を自分自身の経験の生命性から再び生新ならしめた」のである。ところでオルフィク的根源語としてゲーテの挙げたのはδαι[#ιはアキュートアクセント(´)付き]μων,τυ[#υはアキュートアクセント(´)付き]χη,ε[#εはダイエレシス(¨)付き]ρω※[#ファイナルシグマ、1−6−57],α[#αはグレーブアクセント(`)付き]να[#αはアキュートアクセント(´)付き]γκη,ε[#εはグレーブアクセント(`)付き]λπι[#ιはアキュートアクセント(´)付き]※[#ファイナルシグマ、1−6−57]といふ五つの言葉であつた。この場合テュケー及びアナンケーが運命的なものと見られたところのいはゆる「世界」、前者が偶然と見られる限りのそれを、後者が必然と見られる限りのそれを意味したことは、我々のさきに述べた通りである。然るにここに第一の根源語として掲げられたデモンの見方は、かのデモーニッシュなものの概念と直ちに同じでなく、却て前者において後者はゲーテの根本的立場から深められて解釈されてゐる。デモンは固よりここでも運命、しかも内的な、本来的な運命の意味に理解されてゐる。然しそれは同時にエンテレヒー的モナドの意味と直接に結び付けられる。「デモンはこの場合必然的に誕生に際して直接的に言ひ表はされた、個人の限定された個性、特性的なものを意味し、それによつて個人は、なほ甚だ大なる類似性にも拘らず、いづれの他の個人からも区別される。」とゲーテは説明した。それは「内からして」限りなく発展するものであり、しかもそれは「厳密な限定」である。
[#ここから2字下げ]
〔Und keine Zeit und keine Macht zerstu:ckelt,〕
〔Gepra:gte Form, die lebeld sich entwickelt.〕
[#ここで字下げ終わり]
といふ甚だしばしば引用される有名な句は、実に、このやうなデモンの解釈として、このデモンのスュタンツェの中に立つてゐるのである。それはエンテレヒー的モナドの内面的発展の内面的必然性を意味する。デモンはこのときもはやかのデモーニッシュなものの担つてゐた或る偶然性の性格を何等含まない。偶然的なものの意味をもつのはデモンではなく、寧ろ内的なデモンに対立する外的世界である。「この世界の組織は必然と偶然とから成つてゐる。」そこにはテュケーとアナンケーとがある。然るにかかる外的世界乃至外的運命と内的世界乃至内的運命との対立はゲ
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