物は直観を与へず、単に過去のものであつて、生産的でない故に、彼はそれに実在性と真理性とを認めることに躊躇する。然るに偉大な伝説は直観に訴へ、現在の生にはたらきかけ、生産的ならしめるために、彼はそれを歴史的批評の破壊的暴露に委ねることを好まない。このやうな態度は科学にとつては云ふまでもなく、実践の立場にとつても不十分であり、ただ芸術的直観及び生産の立場において徹底され得るであらう。このやうな態度からして、歴史はゲーテにとつて過去の出来事の叙述 Geschichte でもなく、過去の説話 Sage でもなく、却て最も特有な意味における Mythos となる。我々はさきに歴史はゲーテにとつてテュポロギーであると述べたが、今やそれは Mythologie を意味する。歴史は彼において、彼がその自伝を名付けたやうに「詩と真実」である。ベルトラムがその『ニイチェ』(一九二二年)の書を「ひとつのミュトロギーの試み」と称した如く、ミュトロギーはたしかに歴史に対するひとつの関係の仕方を現はしてゐる。ミュトロギーとは何を意味するであらうか。ミュトロギーの哲学を展開したシェリングによれば、「真のミュトロギーはもろもろのイデーの一の Symbolik である。」シュムボルとは何を謂《い》ふであらうか。シュムボルは「形象の如くまことに具体的で、唯自己自身と等しく、しかも概念の如く一般的で、意味に充ちてゐる。」シュムボルといふ語は文字通りに意味形象 Sinnbild を現はす。シュムボルはそれだからミュトロギーにおいて確固たる位置を占める。なぜなら「特殊的なものにおける、普遍的なものと特殊的なものとの絶対的な無差別をもつての、絶対的なものの叙述は唯シュムボル的にのみ可能である。」とシェリングは云ふ。ところでゲーテは「凡てはかなきものは唯たとへのみ。」と書いてゐる。時間に属するものの一切は、永遠に現在的なものの反映に過ぎない。ゲーテは歴史のうちにおいても、自然の凡ての生産物のうちにおいてのやうに、原型的なもの、テュプス的なものを求めた。原現象とはかかるものにほかならぬ。『ファウスト』第二部における有名な「母たち」〔Mu:tter〕 の観念はこのやうな原現象の無時間的な国の象徴的表現と見られてよいであらう。まことに母たちといふ語はゲーテの根本思想を表はすに最もふさはしい。母たちは永遠に現在的なもろもろのイデーである。イデーは母たちとして、概念的なものとしてでなく、直観的なものとして表はされる。それはロゴスでなく、ミュトスである。イデーは彼にとつて抽象的形式的なものではない。「イデーの如く、豊富で生産的」、とゲーテは云ふ。母たちは孕《はら》むもの、産むもの、生産的なものの象徴である。然しまた母たちは特に人間生活の自然形態を表はし、その歴史形態を表はすものではない、女性は男性に比してより自然的なものとも考へられるであらう。云ふまでもなくプラトン的な二元論はゲーテのものでない。原現象はいはば飛躍なしに自然的に時間のうちへ発展して行く。イデーは経験の背後にでなく、却て経験そのもののうちに与へられてゐるのである。「色どられたる影像において我々は生命をもつ。」イデーは内的なもの、純粋に精神的なものとして、歴史的に触れられ、見られ得るものにおいて初めて具象化に達するといふのでなく、寧ろもともと或る自然的なもの、感性的なものを含み、従つてそれだけ直観的であり、そのもの自身において具象化されてゐる。かくの如く具象化されたイデー、イデーの自然形態とも云ふべきものがミュトスにほかならない。我々はミュトスの概念が既にプラトンの哲学において如何に重要な位置を占めてゐたかを知つてゐる。しかもミュトスの概念がこのやうに重要な意味を有したのは、思想史上|殆《ほとん》ど凡ての場合、一般に生成、従つてまた歴史の問題に関してであつたといふことは興味深きことであらう。かくてゲーテにおけるミュトロギーとしての歴史の概念の特殊性を理解するために、彼における生成乃至発展の概念が究明されねばならぬ。
四
生成と運動の思想は夙《つと》にゲーテに含まれてゐた。「自然のうちにあるのは永久の生命、生成と運動である。自然は永久に転化し、そのうちには如何なる瞬間にも静止がない。」と既に二十二歳のゲーテは書いてゐる。この思想は『植物の変態』、その他の彼の晩年の自然研究において完成されるに至つた。然るにこのときその基礎には、つねに形態或はテュプス、或は原現象の観念が存してゐた。植物の場合ではそれはかの「原植物」である。発展の思想はこのやうに形態の思想またはテュポロギーと結び付くことによつて Morphologie の思想となる。モルフォロギーの思想とテュポロギーの思想とはもともと離るべからざるものである。原現象とは、それにおいて生成のイデーが純粋に眼前に横たはるところのものである、とシュペングラーは説明してゐる。現代の歴史家たちがゲーテから汲《く》み取らうとするのは、特にこのモルフォロギー的思想である。シュペングラーはその書物を「世界史のモルフォロギー」と名付ける。ゲーテにおける変態の思想は特殊なるテュポロギーを基礎とするのであるから、それはダーウヰン流の進化論との関係において見らるべきであるよりも、寧ろライプニツの Monadologie の思想に近く立つてゐたと云はれよう。モルフォロギーは彼にあつてモナドロギー的である。これらの点で我々は、ゲーテにおける有名なスピノザ主義なるものに少くとも重大な制限を加へなければならぬ。ゲーテ自身モナスもしくはモナドという語を使つてゐる。それは彼がアリストテレスに従つて好んで用ゐたるところのエンテレヒーにまで発展するものであり、個体または人格の本質を表はすためのものであつた。「我々が神即ち自然から受けた最高のものは、生命、換言すれば、休息も静止も知らぬモナスの自己自身の周りを廻転する運動である。生命を養ひ育てる衝動は各々のものに毀《こぼ》ち難く生具してゐる、しかもそれの特有性は我々及び他のものにとつてどこまでも秘密である。」――「動物の本能に関する問題は唯モナド及びエンテレヒーの概念によつてのみ解決される。各々のモナスは或る一定の条件のもとにおいて現象に現はれる一のエンテレヒーである。」このやうにしてゲーテにとつてもモナドは破壊され得ぬ個体的統一を意味し、この統一は活動的発展的統一であつた。然しまたかやうな個体は彼にとつてつねにテュプス的意味のものであつた。「特殊は種々なる条件のもとに現はれてゐる普遍である。」個体の発展といふのはそれがテュプス的となることにほかならない。
かくてゲーテの自然は、先づ一の発展史を含むことによつてスピノザの自然から区別される。ゲーテをスピノザと共に自然汎神論者と呼ぶにしても、ゲーテの汎神論はディルタイの語を借用すれば発展史的汎神論であつた。次にゲーテは全自然の生成のうちにいはば個体化の衝動がはたらいてゐるのを見た。すでに動物と植物との相違は、前者においてはより完全な仕方でその動的中心をなす有機的形成力が個体化の方向に向つて活動するところにある、と彼は考へた。個体的統一たるモナドの発展は最大の完成に達することが可能であり、各々のモナドの間にはそのエンテレヒーの量に従つて無限の程度の差異がある。人間は最高度のモナドを現はし、人格は「地の子等の最高の幸福」である。「何物も在るのでなく、何物も成つたのでなく、凡《すべ》てはつねに成りつつある、変化の永久の流れのうちには何等の静止もない。人間は各々の瞬間と共に他のものであり、しかも変化の中において不思議に自己自身と同一であり、不変である。これはより高き存在の長所である。」不断に活動し、変化し、しかもそのうちにあつて自己をつねに維持し、持続せしめ得る程度に応じて存在はより完全である。人間は自然の個体化の最高の場合である。然し固《もと》より人間と他の自然の存在との間の差異は程度上のことであり、そこにはどこまでも連続性が存する。人間は自然の最高点を現はすにせよ、なおひとつの自然である。シラーは右に引用した書簡の中でゲーテに云つた、「あなたは単純な組織から一歩一歩より多く複雑な組織へ昇られる、かくて最後に凡てのうち最も複雑な組織即ち人間に至り、これを発生的に全体の自然の建築物の諸材料から築き上げられる。」ゲーテは人間と自然との間に内面的なアナロジーを見、それに従つて歴史と社会の構造をも考へたのである。「同一の法則は一切の他の生けるものに適用され得るであらう。」とゲーテはナポリから、自己の発見に就いて伝へるに際し、ヘルダーへ宛てて書いてゐる。
然しゲーテのモナドには窓がないのでなく、その窓は広く世界に向つて開いてゐる。彼は事物の本質が何であるかはその全体のはたらきにおいてのみ認識されると考へた。「我々が一の事物の本質を言い表はそうと企てても無駄である、我々の目にとまるのは、はたらきであつて、これらのはたらきの完全な歴史がとにかくかの事物の本質を包括するのである。我々が一人の人間の性格を描かうと努力しても無駄である。反対に彼のもろもろの行動、彼のもろもろの行為を総括するがよい、さうすればその性格の形象は我々に対して現はれて来るであらう。」と色彩論への序文の中に書かれてゐる。人間が何であるかは、彼の全歴史を通じて顕はになる。人間は彼の環境、世間、過去及び現代の歴史と交渉することによつて初めて自己の本質を形成し、発展せしめ得る。「我々が我々の欲する何処《いずこ》に身をおくにせよ、我々は凡て根本において集団的存在である。我々の有し、我々の在るところのものにして最も純粋な意味で我々の財産と呼ばれるものは如何に少いか。我々は凡て我々の前にあつた人々から並《ならび》に我々と共にある人々から受け且つ学ばねばならぬ。最大の天才ですらも、もしも彼が凡てを彼の内部に負はうと欲したならば、それほどにならなかつたであらう。」生とは自己の周囲との関係を育てる能力である。ゲーテは彼自身についても、彼の作品が多くの人々から栄養をとつたこと、他の人々が種子を蒔《ま》いておいた処で彼が収穫したこと、を述べた。彼も、彼の語を用ゐれば、「収穫の天才」であつた。「性格はただ世界の流れのうちにおいてのみ形成される。」「孤立してゐては、人間は決して目的に達することがない。」なぜなら「人間が何を捉え、何を作すにせよ、個人は自分だけでは十分でない、社会はつねに立派な人の最大の必要である。凡ての有能な人間は相互の関係に立つべきである。」人間は歴史と社会の中において自己を形成し、発展せしめねばならぬといふのが彼の思想であつた。
[#ここから2字下げ]
Mein Erbteil wie herrlich, weit und breit !
Die Zeit ist mein Besitz, mein Acker ist die Zeit.
[#ここで字下げ終わり]
かやうな思想を彼は就中《なかんずく》『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘイルム・マイスター[#「※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘイルム・マイスター」はママ]』において具象化した。その遍歴時代の中には「時間は神と自然の最高の賜物である。」と云はれる。これら凡ての思想が最も健全な歴史の見方である限り、ゲーテに歴史的意志が欠けてゐたとは単純に考へられない筈である。彼は歴史を単に歴史として尊重することを知らない。彼は「生産的なものを歴史的なものと結合」せんとするのである。我々は過去に寄食すべきでない。過去は現在によつて生かされ、現在の立場から新たに獲得されねばならぬ。「汝が汝の祖先から相続してもつものを、それを所有せんが為に、自分の力で獲得せよ。」固より人間は歴史と社会に交渉することによつて自己の本質と孤立性とを失つてはならぬ。「生あるものはもろもろの外的影響の最も多様なる条件に自己を適応させ、しかも或る一定の獲得された決定的な独立性を失はないといふ天賦を有する。
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング