ス。
かかる意味での自然観照者としてのゲーテの眼に映じた自然は、有機的発展をなすものであつて、弁証法的なものでなかつた。弁証法は彼には寧ろ思弁的なもの、また詭弁的なものと感ぜられたであらう。エッケルマンの録するところによれば、ヘーゲルがゲーテに向つて、「弁証法は根本において整理され方法的に訓練された矛盾の精神にほかならず、この精神はいづれの人間にも内在してをり、その能力は真偽の区別にあたり偉大さを現はすものである。」と云つたとき、ゲーテは、「さういふ精神的技倆と才幹とがしばしば濫用《らんよう》され、偽を真とし、真を偽とするために用ゐられねばよいが。」と疑ひ、――そしてヘーゲルが、「さういふこともあるが、それはただ精神的に病的な人々がやるだけだ。」と答へたとき、ゲーテはなほ次のやうに語つてゐる。「私は自然を研究したため、さういふ病気が起らなくて幸福だ。といふのは、自然の研究では無限に且つ永久に真なるものを取扱ひ、このものはその対象の観察及び取扱にあたり全く純粋に且つ正直にやらない人を無能力者として排斥する。そして私は多くの弁証法的病人は自然の研究において有効な治療を見出し得るであらうと
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