もろのイデーである。イデーは母たちとして、概念的なものとしてでなく、直観的なものとして表はされる。それはロゴスでなく、ミュトスである。イデーは彼にとつて抽象的形式的なものではない。「イデーの如く、豊富で生産的」、とゲーテは云ふ。母たちは孕《はら》むもの、産むもの、生産的なものの象徴である。然しまた母たちは特に人間生活の自然形態を表はし、その歴史形態を表はすものではない、女性は男性に比してより自然的なものとも考へられるであらう。云ふまでもなくプラトン的な二元論はゲーテのものでない。原現象はいはば飛躍なしに自然的に時間のうちへ発展して行く。イデーは経験の背後にでなく、却て経験そのもののうちに与へられてゐるのである。「色どられたる影像において我々は生命をもつ。」イデーは内的なもの、純粋に精神的なものとして、歴史的に触れられ、見られ得るものにおいて初めて具象化に達するといふのでなく、寧ろもともと或る自然的なもの、感性的なものを含み、従つてそれだけ直観的であり、そのもの自身において具象化されてゐる。かくの如く具象化されたイデー、イデーの自然形態とも云ふべきものがミュトスにほかならない。我々はミュ
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