なかつた。それらのもののうちには或る無理なもの、香具師《やし》的なものが含まれてをり、「誤謬と強力との混淆物」と彼には思はれた。「私は世界史のことを意に介するほど年寄つてゐない、それはおよそ最も不合理なものである。此の人または彼の人が死し、此の民族または彼の民族が滅ぶかは、私にとつてはどうでもよいことだ。それを意に介するとすれば、私は馬鹿であらう。」と老年のゲーテはフォン・ミューラーに語つてゐる。彼の捉へたのは時間存在としての人間であるよりも空間存在としての人間であつた。ゲーテに比してはヘーゲルも時間の哲学者であつたと見られやう。「彼の直観及び方法そのものの形式は単に排他的な時間であつて、同時にまた寛容的な空間でない。彼の体系は従属及び継起を知るのみであつて、並列及び共在の何物も知らない。」とフォイエルバッハはヘーゲルの思想を、シェリングの同一哲学と対照して評した。この意味ではゲーテはヘーゲルよりもシェリングに一層近く立つてゐた。然るに空間と時間とは自然と歴史とを区別する最も根本的な表徴である。そこで我々はゲーテについて時間の問題を考察してみよう。
三
人口に膾炙
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