念から歴史概念への移動乃至転化ではなかつたのである。古典的といふこともそれ自身の意味における自然概念を基礎とするのであつて、このことはギリシア思想とキリスト教思想とを対照することによつて明瞭に理解されよう。然しながら、もしまたゲーテが汎神論者であつたとすれば、汎神論はまさに汎神論として、その基礎の上では自然と歴史とは鋭い対立をなし得ず、却て両者は連続的融合的に考へられるのほかないから、たとひ彼がいはゆる自然汎神論者であつたとしても、彼はなほ或る仕方で歴史に対するつながりを有することができたであらう。丁度、反対に歴史汎神論者といはれるヘルダーが、歴史において特に自然的要素を重要視し、現代の人文地理学の発達を促すこととなつたやうに、自然汎神論者といはれるゲーテが今日、自然科学に対してよりも却て歴史学に対して特殊な、顕著な影響を及ぼしつつあるといふことは、興味がなくはない。ゲーテにおける自然概念は、その青年時代のルソオ的な自然概念から、古典的な自然概念を経て、晩年における最も含蓄的な自然概念にまで発展した。とりわけ彼はその晩年深い情熱をもつて自然研究に従事した。そして歴史学が今日ゲーテに負ふ方法上の新しきものは、特に彼のこの時期の自然哲学的研究のうちに含まれてゐる。さうだとすれば、少くとも彼の晩年の自然概念には歴史と内面的に交渉する或るものがあつた筈である。我々はこのやうな自然概念の特殊性のうちにそれの歴史に対する特殊な関係を見なければならない。それによつて我々はゲーテが単なるスピノザ主義者にとどまらなかつたことを知り得るであらう。代表的な自然汎神論者たるスピノザは歴史に対して何等の関係をも含まないに反し、ゲーテには歴史への通路が開けてゐた。然しそれにも拘らずゲーテにおける根本概念が依然として自然であつて歴史でなかつたことを考へるならば、そこにはまた或る制限と限界とが存するのでなければならぬ。
 かくてゲーテは歴史に対し一面親和的に他面敵対的に、両重の関係に立つてゐたといふことが推察されよう。既にゲーテと歴史の問題は、単純にゲーテにおける歴史の問題であり得ず、却てゲーテにおける「自然と歴史」の問題でなければならない。そして我々の研究はおよそ次のやうな意味を有するであらう。一、我々はそれによつて現実的な歴史的意識が相矛盾する二つの契機を含む弁証法的構造のものであることを示すことができる。その一つの意味ではゲーテは十分豊かに歴史的意識を具《そな》へてゐた。然しそれだけ、他の意味では彼は非歴史的であつた。一つの意味における歴史性を彼において明かにすることは他の意味における彼の非歴史性を明かにすることとなり、他の意味における彼の非歴史性を明かにすることは一つの意味における歴史性を彼において明かにすることになる。ゲーテと歴史の問題についての議論はこれまで、歴史的意識の本質が明確に把握され、規定されてゐないために、虚空に彷徨してゐる場合が少くなかつた。二、自然と歴史とは固《もと》より相対立する概念でありながら、しかも現実的な歴史の概念は、その弁証法的要素として、単に外面的にのみでなくまた内面的に、或る特殊な自然の概念を含まなければならない。かくの如き歴史における内面的に自然的なものが何であるかは、ゲーテについて明瞭に示され得るであらう。然し第三に、我々の研究は、ゲーテに親和的に感じ、その伝統を継がうとする現代の歴史学の或る傾向に対する批判の意味を含むであらう。ゲーテは自然概念をもつて歴史を考へる最も模範的な且つ最も豊富な場合を現はしてゐる。然しながら、彼の明示もしくは明示したものが歴史学にとつて如何に魅惑的であるにしても、それはなほ自然を基礎とし、従つて歴史と自然とが相対立するものである限り、固有なる歴史概念ではあり得ない。或は逆に現代の歴史学の或る傾向における根本概念をゲーテにおいて根源的に解明し、それがもと自然を基礎とするものであることを示すことによつて、我々はそれを批判し得るであらう。

        二

 ゲーテは直観の人、眼の人間であつた。明瞭な、形態ある、限定された、体現的な直観が彼にとつては実在性の尺度である。ただ直観的なもののみが実在的である。歴史に対する彼の不信も、歴史が伝来物によらねばならぬ限り、彼の眼に向つて語らず、彼の思惟《しい》に訴へねばならぬためであつた。伝来物は出来事について[#「ついて」に傍点]のものであり、そしてしばしば出来事についてですらなく、寧ろ伝来されたものについてのものであり、これを基礎とする限り歴史は、自然及び芸術の諸形態の如く、直接的な体現的な直観を供しない。直観の欠如といふことがゲーテの歴史に対する関係の乖離《かいり》であつた。それだから反対に、間接的な、そして多くは疑はしい、従つて歴史的批評
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