、蜂は全体の頭と見らるべきものである。どうしてかうなるかは不思議で、明言することが困難だ。然し私はそれについて私の思想をもつてゐると云つてもよい。このやうに民族は、半神の如く先頭に立つて守護と安寧となるやうな民族の英雄を作り出す。かくてフランスの詩的能力はヴォルテールに集中した。一民族のこのやうな頭はそれが活動してゐる世代にあつては偉大である。後々まで持続するものも多いが、大部分は他の頭と取り換へられ、次の時代からは忘れられる。」ゲーテの社会観が族長的社会主義ともいふべきものであつたことも、このやうな考へ方と符合するであらう。然るにこのやうな考へ方は一の Analogistik と見らるべく、そしてこのものは一般に有機体説の特徴のひとつをなしてゐる。或は寧ろ、アナロギスティクは有機体説の基礎の上において初めてその十分な意味と内面性とを有すると考へられるべきであらう。ところでゲーテにおいては、人間及び社会が自然と見られたやうに、自然もまた或る人間的なもの、文化的なもの、精神的なものと見られた。かの『自然の体系』に見られるが如きフランス唯物論の自然観に対してゲーテは夙《つと》に強い反発を感じた。自然は機械的なものでなく、生ける生命である。自然的形成過程も一種の人文的形成過程、即ち教育乃至教養と見られた。人間的自然の研究が彼においてつねにいはば教育学的観点によつて方向付けられてゐたのは当然である。然しまた人間の教養の過程も一の自然的形成過程として、従つて根本的にはかの分極性と高昇との関係において捉へられた。否、一般的に云つて、ビルドゥングといふ思想は、有機体説的世界観の基礎を俟《ま》つて初めて、その固有な且つ十分な意味において成立するものである。「ひとが周囲の対象を認めるや否や、彼はそれを自己自身に関係させて見るのである。そしてそれは当然だ。」とゲーテは云ひ、「自然の核心は人の心の中にあるのではないか。」とも、「感情は一切である。」とも彼は書いた。彼の直観、芸術家的制作的な想像力のうちに自然と人文とは統一され、連続的として現はれる。けれども我々は彼を単なる主観主義者と見做《みな》してはならない。ゲーテ自身が自然であり、自然そのものの如く活動した。彼は芸術をも自然のやうに観察した。彼は自然によつて自己の眼を養ひ、それをもつて一切を見ようとした。「私が自然科学の研究をしなかつ
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