都の文科は高等師範出身の者が圧倒的で、私のごときはまず異端者といった恰好であったのである。常時哲学専攻の学生は極めて少なく、私のクラスは私と同じ下宿にいた森川礼二郎との二人であった。私が変っていたとすれば、森川も変っていた。彼は広島の高等師範から来たのであるが、大学を卒業してから西田天香氏の一灯園に入ったという人物である。変り者といえば、私の高等学校の同級生で、遅れて京都に来た小田秀人などその随一で、大学時代には熱心に詩を作っていたけれども、しばらく会わないうちに心霊術に凝《こ》り、やがて大本教になったりしたが、なかなか秀才であった。やはり一高から京都の哲学科に入った三土興三も変り者で、私は彼において「恐るべき後輩」を見たのであるが、自殺してしまったのは惜しいことである。もし三土が生きていたなら、と思うことが今も多いのである。
      *
 現在の学生に比較して私どもの学生時代はともかく浪漫的であった。時代が波瀾に富んでいたのではなく、青春の浪漫主義を自由に解放し得るほど時代が平和だったのである。

      二

 当時の京都の文科大学は、日本文化史上における一つの壮観であるといっても過言ではないであろう。哲学の西田幾多郎、哲学史の朝永三十郎、美学の深田康算、西洋史の坂口昴、支那学の内藤湖南、日本史の内田銀蔵、等々、全国から集まった錚々たる学者たちがその活動の最盛期にあった。それに私が京都へ行った年に波多野精一先生が東京から、またその翌年には田辺元先生が東北から、京都へ来られた。この時代に私は学生であったことを、誇りと感謝なしに回想することができない。
 私には私ながらの感傷も懐疑も夢もある青春であった。大学時代、私は一年ほどかなり熱心に詩を作ったことがある。できるといつも谷川徹三に見せて批評してもらった。そのころ彼は有島武郎はじめ白樺派に傾倒しており、私も多少感染されていた。こうした私であったのに、学生としてなすべき勉強を一応怠らずにすることができたのは、前記諸先生の感化によるものである。
      *
 大学時代、私は書物からよりも人間から多く影響を受けた。もしくは受けることができた。そしてそれを私ははなはだ幸福なことに思っている。当時は学生の数も少なかったので、教授と学生との関係は今とは比較にならぬほど親密であった。ことに私は波多野先生や深田先生のと
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