思ふと、きつと、鳴る。僕は決して、避けない。逢ふて、今無いよ、困りますねえ、差押へでもし給へ。それだから、貴下《あなた》は困る。せめて利子だけでも――と、三人の高利貸が、競売にすると損だから、利子をとる事ばかりにかゝり出した。かうなると、こつちの方が強い。
大家の方は、十八ヶ月家賃をためた。僕が出入とも自動車だから、今に何んとか成るだらうと思つてゐる内に、そんなに、たまつてしまつたのである。家賃も、この位たまると、大家も出て行けと云はないし、こつちも、義理が悪くて動けない。
この時に、救つてくれたのが、三上|於菟吉《おときち》で「原泉社」といふ出版屋を二人で始めた。白井喬二の「神変呉越草紙」などといふ大衆文学の皮切りの作品を出したし、片岡鉄兵訳の、探偵小説も出した。所が、一向儲からない。その内に、と、思つてゐると、関東大震災だ。揺れやんで、市ヶ谷見附へ逃げて行つた時に、心の底から、
(やれ/\、せい/\した)
と、思つた。そして、これをいゝ口実に、大阪へ行つてしまつた。
菊池寛に、救済されたのは、この時分だ。僕は、着たつきり、女房も同然、それでも、この貧乏の時、高利貸からこそ金は借りたが、一人の友人からだつて、金は借りなかつた。菊地にだつて、
「困つてゐるからかしてくれ」
とは、断じて云はなかつた。云はないでも、
「君、金いるだらう」
と、云つて、袂《たもと》の中から、くちや/\の十円紙幣を、二枚か三枚かづゝくれた。上の女の子は、もう大きいから、時節の物を着んと承知しないが、下の男の子は、冬の最中、夏服をきて、下へ、綿など、脊負つてゐた。
「冬服を買つてやりたいが」と、それを、ずゐ分、苦にしてゐた時に、菊池が、
「これやるよ」
と、云つて二十円くれた。今でも、この二十円をくれた時の有様を、はつきりと、憶えてゐる。貰ふとすぐに、さよならをして、街へ出ると、涙が出た。いくら拭いても出てきた。貧乏をして泣いたのは、この時だけだ。借金取りは、二度|撲《なぐ》つた。
大阪で「プラトン社」へ入つて「苦楽」を編輯し、それから、キネマへ手を出して、これが、又、差押へつゞきだ。東京へ越さうと、荷造りをしたのが、そのまゝ競売にされるし、その時のが、今でも、時々、やつてくる。僕の家に、何んにも無いのは、そのせいで、無い方が、身軽だと思つてゐる。
「近頃は、いゝだらう」
と、時々、人が云ふが、僕の手に入らん内に、半分消える稿料があるし、三分の一は、人が持つて行くし、貯金としては、金八百円ある切りだ。
文士家業なんてものは、大抵、十年が寿命だ。少しは、ためておかんと、困るだらう、と、さういふ考へ方を僕はしない。食へなくなつたら困るから、僕は、勉強をする。一昨年僕は「××社」と絶交して書かなかつた。大衆作家が「××社」と絶交するのは、糧道を断つに等しい。だが貧乏育ちは、そこがいゝ。かまふもんか、貧乏が苦しけりや、勉強していゝ物を書くやうになるだらう、と。それで、一|昨ゝ年《さく/\ねん》より勉強した。将来も、入るだけの金は使つて、貧乏に追はれながら、勉強で打勝つつもりだ。父の魂が、十分に残つてゐる。
子供の事は、かう考へてゐる。一人で食へんやうな奴に、なまじ、家だの、小金だのを残してやる事は、罪悪だと。利子で食へるんだつたら、勿論罪悪だし、家賃はいらないから、百二十円の月給で、これ/\と、女房と二人で、おつかなびつくり世渡りして行くやうな伜《せがれ》なら、何うなつたつていゝ。
今に、プロの世の中になつたら、僕の父の奮闘と、僕の胎内からの奮闘とは、物嗤《ものわら》ひ話になるだらう。然し、僕は、僕が貧乏で無かつたなら、今の僕の根強さと、楽観的とは、生れて来なかつただらうとおもふ。貧乏の無い人生はいゝ人生だが、貧乏をしたつて必ずしも、人間は不幸になるものではない。
底本:「日本の名随筆85 貧」作品社
1989(平成元)年11月25日第1刷発行
1991(平成3)年9月1日第3刷発行
底本の親本:「直木三十五全集 第十五巻」改造社
1935(昭和10)年6月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月19日公開
2006年1月9日修正
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