るか、聞いてみるがいゝ。
(それで、今、若くて、利口で、美しい人を求めてゐる。本当に求めてゐるが、誰も戯談《じやうだん》にして取合はないし、女など居ないでも、さう淋しくないが、その内、恋人でもできて、矢張り、独身は、本当だつた、それなら、と後悔する人の無いやうに、序《ついで》ながら、広告しておく)
 所が、僕の妻、即ち、子供の母が(子供の母は必ずしも、妻では無い)彼女の若い時分、二十七歳の時(現在四十八歳)東京へ脱走してきた、のである。父も食客を置いてゐるから、僕もおいてやれと、置いてゐる内に、何《な》んしろ、二十七と、二十一歳の美少年とだから、かなはない。
 そこで、学校へ納める月謝を、家賃へ廻して、家をもつた。(卒業しなかつたのは、このせゐである)それまではよかつたが、卒業すると、学資は絶えるし、子供が一人生れてくるし、細田源吉と田中純とは、春陽堂へ、保高《やすたか》徳蔵は、読売へ、宮島新三郎はパトロンがゐるし、西条八十には女学生のフアンが――取残されたのは、青野|季吉《すゑきち》と、僕とで、青野は、毎日夫婦喧嘩をしては、その報告と、休養とに、出てくる。
 本を売り、着物を入質《いれじち》し、女の物を売り、貸間へ落ちとうとうどん底へ来てしまつた。生まれながらの貧乏は、かういふ時に、胆《きも》が坐つてゐる。相馬御風氏の所へも、吉江孤雁氏の所へも、片上天絃氏の所へも、就職の頼みには、絶対に行か無いし、原稿など売れやしないから、そんな事はてんで考へない。友人にも、親族にも、黙つて、
「何とかなるよ」
 と、云ってゐた。だが、最後に「実業の世界」で、記者入用の広告を見て、今は無いが、日比谷の角にあつた同社へ行つた。十銭玉一つ。往復だと七銭、片道四銭の時分だ。電車にのつて考へた。
(片道なら六銭残る。もし採用されたら、もう四銭出して乗つて帰ればいゝのだが、採用されなかつたなら、歩かないと――)
 と、今にして思へば、試験官は、安成《やすなり》貞雄氏だつた。くりくり坊主が振向いて、
「もう、採用してしまつたから」
 さう云つて又ぐるりと、向う向いてしまつた。
(二度と、求職などに歩くものか)
 貧乏鍛えの負けじ魂は、この時に決心をした。そして女には、この事を黙つて、
「餓死はしないよ」
 実際、餓死状態までになると、大家だつて、警察だつて、すてゝはおくまいと、決心してゐた。何かの仕事をくれるだらう。その方が、あんな坊主に断られるよりはましだ、と考へてゐた。だが、もう、何うする事もできなくなつてゐた。その時に、相馬御風氏から一つの仕事が、田中純を通じて、持込まれた。これが、六十円だ。
(三|月《つき》食へる)
「戦争と平和」を、二百枚に縮めろといふ仕事だ。訳の出てゐない時分だ。死物狂ひに英訳を読んだ。書いた。三月経つた。保高が、
「妻君になら口があるんだが」
 と、云つてきてくれた。生れて三月目の赤ん坊がゐる。だが、女が働くより法が無い。今なら、女給などゝいふのがあるし、女房は美人だつたから、少々齢をとつてゐても、勤まつたゞらうが――その口は、読売新聞に新設される婦人欄の外務記者で、月給十八円、手当五円、電車のパス月に二冊。僕は、女を働かせて、子守りである。
 飯を焚くし、ミルクを作るし、夕方の菜《さい》から、悉《こと/″\》く僕だ。三四月からだつたゞらう。僕が、胡座《あぐら》をかいて子供を、脚の間へ入れると、丁度、股が枕になつて、すつぽり、子供の身体が入る。これを上下へ動かすと、子供はよく眠る。(この子供が十七になつて文化学院へ行つてゐる)そろそろ暑くなると、家にをられないので、風呂屋へ行つて、三時間位、かうして子守りをしてゐる。この期間八ヶ月つゞいた。八ヶ月目に、女は、
「もう袷《あはせ》が無いと、いくら何んでも、働けない」
 と、云つた。これまでと夏の間に、さういふ金目の物は、皆無くなつてゐるのである。十月にかゝらうとするのに、女は単衣物《ひとへもの》で、訪問して歩いてゐたのだ。僕は言下に、
「よせ」
 と、云つた。そして、大日本薬剤師会の書記になつた。それから、当時「わんや」にゐた神田|豊穂《とよほ》と知合になつて「わんや」が金を出して「春秋社」を創立した。そして、トルストイ全集を出した。こゝで、第二期の貧乏が暫《しばら》く、名残りを惜しみつゝ、別れて行つたのである。

 第三期
「人間社」をやつた。久米、田中、里見、吉井が同人《どうにん》である。高利貸から、金が借りられるまでになつてゐた。高利貸なんて、便利なものだから、ちよい/\、利用してゐると、強制執行が、時々きた。
 この時分、人間に第六感のある事を信じるやうになつた。それは、借金取の電話のかゝつてくる前になると、きつと、眼ざめるのである。
(いけない。電話だぞ)
 と、
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