ったし、その外、斉彬の手で、取立てられ、取立てられかけていた人々は、殆んど、その位地を奪われてしまった。
 そして、その人々の代りに、上士の人々が、それらの二男が、三男が入って来たが、上役は、蔭でそっと
「物の役に立たぬ」
 と、呟くし、下役の人々は
「何んだ、あの野郎」
 と、軽蔑した。そして、心ある上役は、軽輩時代の近づいたのを知って、斉興を、もう一度、後見にしたということは、却って、悪かったと考え、下役の人々は
(老公は、すぐ死ぬんだ。死んでみろ、手前ら――)
 と、威張るのみで、仕事のできぬ上士出の人々を、軽蔑して、斉興の死を、待つ心になっていた。
 磯浜にあった紡績工場は、閉鎖されてしまった。上士達は
(何んの役にも立たぬ紡績工場など――いっそ、こわしてしまえばいい)
 と、思ったし、下士達は、それが、ただ、斉彬の遺物であるというだけで、そうしたことに、深い憤りを包んでいた。反射炉の火も消えてしまった。上士達は、それに対して
「濫りに、大砲などを鋳造して、幕府のとがめを受けるなど、愚の頂上だ。薩摩には、天嶮《てんけん》がある。誰が、入れるものか」
 と、評した。そして、下級の士は、磯浜の堤の中に、沈黙している、その反射炉から生れてきた大砲を、撫でながら、或る者は、泣き、或る者は憤り、或る者は、叫んでいた。
(斉興が立とうと、久光が、立とうと、わしらの志は、変らないぞ。わしらは、それぞれ、斉彬公のお志をもつものだ。吾々の一人一人が、それぞれ天下の難に当るのだ。一人で、日本を背負って立つつもりなのだ)
 三人集まれば、五人集まれば、斉彬の遺訓を口にしていた。
 軽輩が、何をしても、だまっているのを、将曹等は、斉彬が亡くなっての失望だと、考えていた。
 それで、硝子工場を、機械方を、造船を――斉彬が、日本の進歩のために、研究し、設備しておいたすべての事業を、「経費節約」と、いう名の下に、停止させてしまった。そうして、実際また、それらのところで働いていた人々も、斉彬を失っては、完全な仕事をし得なかった。
 斉彬の、遺しておいたこうした形が、だんだん荒れて行くと共に、軽輩の力は、ますます内部で潜興《せんこう》してきた。上士の方からも、軽輩へ、近づこうとする人が、生じてきた。軽輩の中の無為な人々が、同僚の言行に対して、理解を持ち出してきた。
「おれは、斉興を、主とも頼まぬが、久光も、また、主とも頼まぬ。天下のことは、自分一人で、天下と共に、天下の勢いと共に、天下の士と共に、成し遂げて見る」
 西郷吉之助は、こうした決心をした。そして、同じ心の人々は、斉彬の遺業が、斉興の手にて、破壊されると同時に、斉彬の志を奉じて、それぞれ、諸国に奔《はし》った。上士は、勤王、倒幕の遊説の士が、城下へ入るのは、防いだが、軽輩が、そのために、脱出するのを、とめはしなかった。
 止めることは、激発させるおそれもあったし、一人でも、そうした男のいなくなることは、自分を安全にする道であった。上士にとって、斉彬は、理解のできぬ、大きい陰影のようなものでもあった。そして、その死と共に、それが消失すべきであるのに、だんだんその影が大きく、強くなるのに、困った。そして、その影を、消し、払うことのみに努めていた。

(兄の、遺志を、どこまでも継いで――)
 その日の夜から、久光は、そう考え、そう決心をしていた。
 だが、その日の夜から、重役達は、久光を除いて、密談をしていたし、その翌日、上士階級の人々は
(もう一度、斉興公に――)
 と、話をしたし、その次の日には、久光が斉彬に代って、目をかけてやろうと、考えていた人々が、久光に冷やかな目を向けたし、それから、幕府は、斉彬を頼みとしていた、その一部分をも、久光を、頼みにはしていないようであった。
(兄の考えは、何一つとして間違っていない。天下も、島津も、兄の予言の如くになって行くであろう)
 久光は、そう信じて、もう一度、家政を支配しようとする斉興に対し、させようとする人々に対し、押えきれぬ不満と、怒りとをもっていた。
(わしは、自分の権勢のために、忠義の後見をしようとするのではない。天下のため、島津のためにだ)
 だが、久光を取巻く、上士の人々は、一人として、久光に
「また、老公が、お立ちになるとは、困ったことでござりますな」
 と、さえ、いう者がなかった。そして、その代りに
「軽輩共は、今度の斉彬公の御逝去も、お由羅様の、呪咀だなどと申して、ひそひそ談合しております」
 と、いった。そして、軽輩は、明らかに、久光を、敵視していた。久光は、葬式の日に見た西郷吉之助の、大きい眼を思い出した。それは、十分の敵意と、怨恨とを含めて、睨みつけた眼であった。久光は、遠からぬ前に、吉之助らが、斉彬のために、久光を元兇として、立とうと企てていた、ということを聞いていた。だから
(わしは、兄の志を継いで、共々天下の難に赴こうというのに、汝等、わしの肚がわからぬか)
 とも、考え
(不届な)
 とも、怒り――そうして、ある時には
(わしは、まだまだ兄にまでは到らぬから)
 と、反省もしてみたが、重臣達は、久光を、斉彬の崇拝者として危険に思い、軽輩は、斉彬の敵として、憎んでいるかと思うと、ただ一人、孤独の立場になって、自分を知られぬ苛立たしさに、落ちつけなかった。
 久光は、兄の残しておいてくれた、軽輩の人々の連名を読み、新しい器具の設計書を見、新しい知識の翻訳書を眺めて、ただ一人、部屋の中に、閉じこもっていた。
(兄は、こういう時に、いつも、判断を、誤らなかった。重役共が、己のために、斉興を立てて――父の命が、何年あると思うか? それだけの間小康を得て、何になるか?――兄の仕事を、こわして、それで、兄の蒔いた種までが、枯れるとでも、考えているのか?)
 久光は、重役とか、上士とかの人々の、あせり方と、軽輩が、斉彬の死後、何一ついわず、何一つせず――そして、ひそかに、脱藩して、京師へ、江戸へ、行くのを見ていると
(世の中も、ちがってきたが、お国風もちがってきた)
 と、感じない訳には、行かなかった。
(十年前なれば、軽輩を、手もなく、押えたであろうが、今では、上士は、己を守るのみに忙がしい。勝利は、明らかに、軽輩の手にある。わしを恨んでもいいが、わしは、お前らを、十分理解しているつもりだ)
 久光は、自分の代になると同時に、西郷を、大久保を斉彬のしたと同じように、重用してやろうと決心した。

 久七峠の上の、茶店に、七八人の若者が――それは、脱藩をして、江戸へ、益満等と共に、行を同じゅうせんとする人と、京師へ出て、諸国有志と、提携しようとする人と、そうして、見送りに来た人と――
「爺は、いつも変らぬのう」
「はい――」
「婆は、何うした?」
「あれは、半年ばかし前に、亡くなりましてな」
「そうか、死んだか――」
「いつだったか、矢張り、貴下方みたいな方が、この先で、斬合いをなされましたが、今日も、何か――」
 若い人々は、眼を見合せて
「牧を、討ちに来た時だった、あれは」
 一人が、窓から、遥かの、山裾の道を、指さして
「あの辺だった」
 一人が
「ま、行こう。一刻《いっとき》、遅れると、一刻の損になる」
 と、いって、刀をさして、立上った。
「それでは、益満に」
「ああ、西郷に」
 四人は、関所の側へ、三人は、元の道の方へ
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ざんば岬を、後に見て
袖をつらねて、諸人の
泣いて、別るる、旅衣
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 三人が、声を合せて唄った。そして、それが、終ると、四人が
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渭城《いじょう》の朝雨、軽塵を※[#「褻」の中央が「邑」、第4水準2−88−23]《うるお》す
客舎青々、柳色、新なり
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君にすすむ、更に尽せ一杯の酒
西の方陽関を出づれば故人なからん
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「成功をしてくれ」
「後を頼むぞっ」
「斉彬公のために」
「天下蒼生のために」
 三人と、四人とは、振返り、振返り、同じ唄を、かれ等の別れの小唄を
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ざんば岬を、後にみて
袖をつらねて、諸人の
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 曲り角へ来た時
「有村っ」
 有村が、振向いて
「五代っ」
 と、叫んだ。そして、手を挙げて、各々の名を呼んだ。そして、一寸、佇んだ、が、すぐ、山蔭へ――
「おーい」
 と、呼ぶと
「おーい」
 と、答えた。別離の悲しみが、胸いっぱいであると同時に、未来に対する希望が、明るい金の烏《からす》の形となって、若者の、軽輩の青年の頭の中を、狂った如く、飛び翔っていた。
(倒せても、倒せなくても、徳川を倒さずには、おくものか。斉彬公が、そう仰しゃっていた)
(取れても、取れなくっても、天下を取らずにおくものか。斉彬公が、そう仰しゃっていた)
(やれても、やれなくっても、吾等軽輩はやらずにおくものか。斉彬公が、そう仰しゃっていた)
 行く者は、東へ、送る者は、城下へ。それは、長い距離を離れていたが、心は一つであった。斉彬の死によって、一新した心は、斉彬の遺志を展《の》べさすために、十分の熱と、力とをもっていた。
 関所を抜けたらしく、四人の姿は、牧を追って山内と闘った道の辺に、小さく見えて来た。もう、声は届かなかったが、お互に、手を挙げ、手を挙げしながら――遠ざかり、曲り、そして、別れてしまった。



底本:「直木三十五作品集」文藝春秋
   1989(平成元)年2月15日第1刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2007年3月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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