「山猫を買いに行くのには、これに限る」
 富士春が
「悪い病だねえ」
「師匠の病気と、何《いず》れ劣らぬ」
 と、いいながら、益満は、袴をぬいで
「小道具を、一つあずかって置いてもらいたい。猫は買いたし、御門はきびし」
 益満は、そういいながら、部屋の隅で、汚い小者姿になって、脇差だけを差した。そして、両手をひろげて
「三両十人扶持、似合うであろうがな」
 と、笑った。
 富士春は、次の稽古の人々へ、三味線を合して
「主の姿は、初鮎か、青葉がくれに透いた肌、小意気な味の握り鮨と。さあ、ぬしいの」
 と、唄いかけた時
「頼もう」
 と、低いが、強い声がした。そんな四角張った案内は久しく聞いたことがなかった。御倹約令以来、侍は土蔵の中へ入って三味線を弾くくらいで、益満一人のほか、ぴたりと、稽古をしに来なくなったし――富士春は、唄をやめて、不安そうな眼をした。
(役人が、又何か、煩《うるさ》いことを)
 と、思った。
「入れ」
 益満が、答えた。格子が開いたので、富士春も人々も、大提灯のほの暗い蔭の下に立った人を眺めた。
(あいつだ)
 と、人々の中の二人――昼間の喧嘩を見ていた人は思い出し
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