した。
右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら
「南無金剛忿怒尊」
と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。
「お待ちに、ござりまするが」
三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は
「今――」
と、いったまま、紫檀《したん》の大机に凭《もた》れて、書物《かきもの》をしていた。そして、筆を走らせながら、
「今行く」
と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。
寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とを齎《もたら》して来るものであった。
斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に
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