し、顔色を回復した池上が、静かにいった。
「新納殿、御無礼致しました」
 兵頭は、脚を引いて、御辞儀もしないで
「もう、夜に近い。急ごうよ」
 一座の人々は、一座を、新納を、余りに無視した二人の振舞に、何う判断していいか、ぼんやりしていた。兵頭が、立ちかけると、新納が
「兵頭、引出物を取らそう」
 と、叫んだ。
「引出物?」
 兵頭が、新納を睨んで、身構えた。新納は、自分の脇差を抜き取って
「主水正《もんどのしょう》じゃ。差料にせい」
 と、兵頭の脚下へ投げ出した。兵頭は、暫く黙って、新納の顔を見ていたが、静かに坐った。そして、手をついて
「お許し下されますか」
 じっと、新納の眼を見た。
「池上、そちにも取らそう。大刀を持て」
 と、小姓へいった。そして、兵頭へ
「斉彬公が、軽輩、若年の士を愛する心が、よく判った。機があったら、新納が、感服していたと、申して伝えてくれい。ただ、池上、兵頭。噂に上っている牧、或いは調伏のことなどで、あったら命を捨てるなよ。近いうちに天下の大難がくる。それを支え、切抜け、天下を安きに置くは、もう、わし等如き老境の者の仕事ではない。悉くかかってお前達の双肩にある。よく、斉彬公を輔佐《ほさ》し、久光公を援けて、この天下の難儀に赴かんといかん。一家の内に党を立て、一人の修行者風情を、お前ら多数で追っかけるような匹夫《ひっぷ》の業は慎まんといかん」
 二人は、だんだん頭を下げた。
「同志の者によく申せ――これ、馬の支度をして、送ってやるがよい。お前達が、次の天下を取るのじゃ。大切にせい。髪の毛一本でも粗末にするな。指は、一本だけ折ればよいぞ。兵頭」
「はっ」
 兵頭は、泣いていて、顔を上げなかった。
「斉彬公よりも、天下に動乱のあること、よく承わっております。御教訓、しかと一同に申し伝えまする」
 と、池上が、挨拶した。
 二人が、引出物の刀と、脇差とを持って廊下へ出ると、もう、黄昏になっていた。廊下つづきの、左右の部屋部屋から、いろいろの顔が、ちらちら二人を覗いたし、玄関にも、多勢の人々が、二人を眺めていた。
 提灯を片手に、馬丁が、馬の右に立った。人々の挨拶を受けて、門を出ると、もう、夜であった。門の軒下を、曲ると――二つの影が
「武助」
「五郎太」
 と、叫んだ。馬丁が、その方へ提灯を突き出した。二人の青年が、見上げていた。
「おお、西郷」
「大久保。今頃まで、何していた」
「待っていた。無事だったな」
 大久保の声は、微かに、明るく、顫えていた。
「引出物まで頂戴した」
 と、武助は、脇差を、かざしてみせた。

 黒塗りの床柱へ凭れかかって、家老の、碇山将曹《いかりやましょうそう》が
「何んと――京で辻君、大阪で惣嫁《そうか》、江戸で夜鷹と、夕化粧――かの。それから?」
 金砂子の襖の前で、腕組をして、微笑しているのは、斉興の側役伊集院伊織である。その前に、膝を正して、小声で、流行唄を唄っているのは、岡田小藤次であった。
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意気は本所、仇は両国
うかりうかりと、ひやかせば
ここは名高き、御蔵前
一足、渡しに、のりおくれ
夜鷹の舟と、気がつかず
危さ、恐さ、気味悪さ
[#ここで字下げ終わり]
 小藤次は、眼を閉じ、脣を曲げて、一くさり唄い終ると
「ざっと、こんなもので」
 扇を抜いて、忙がしく、風を入れた。
「世間の諸式が悪いというに、唄だけはよく流行るのう」
 将曹が、柱から、身体を起して
「ツンテレ、ツンテレ――か、のう。ツンテレ、ツンテレ、京でえ、辻君――」
「トン、シャン」
 小藤次が、扇で、膝を叩いた。
「申し上げます」
 廊下から、声がした。
「大阪で、惣嫁」
「テレ、ツテツテ、ツテテンシャン」
「申し上げます」
 将曹が、扇で、ぽんと膝を叩いて
「えへん――江戸で、夜!」
「申し上げます」
 伊集院が、立って行って
「何んじゃ」
「名越左源太、仙波八郎太殿御両人、内密の用にて――」
「待て」
「テレトン、テレトン」
「御家老」
 将曹は、細目を開いて
「夕化粧、ツンシャン――何んじゃな」
「名越と、仙波とが、何か話があって、お目にかかりたいと――」
 将曹は、うなずいて、また、眼を、閉じた。小藤次が
「意気は、本所」
「意気は、本所」
「テレ、トチトチ、ツンシャン」
 障子が、静かに開くと、敷居から一尺程の中へ、二人が坐った。取次が、障子をしめると、二人は、御辞儀をした。
「仇は、両国――もっと、近う」
「はっ」
「ただ今、唄の稽古じゃ」
 小藤次が、口三味線のまま一寸振向いて、二人を見て、すぐ
「うかりうかりと――」
「うかり――」
 仙波が
「ちと、内談を――」
「ひやかせば――内談か、聞こう」
「申しかねまするが、御人払いを――」
「人払い?」
 将曹の顔
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