殺すに刃物はいらぬ、にっこり笑って眼で殺す」
「ぶるぶるっ、今の眼は、笑ったのか、泣いたのか」
稽古場から
「煩《うるさ》い」
と、一人が怒鳴った時、誰か表から入って来た。
「よう」
と、一人が、のびやかに迎えて、会釈をした。
「今日は、少いのう」
益満は、刀をとって、部屋の隅へ置いた。富士春が、軽く、挨拶をした。
「病人の見舞で」
「誰か、病気か」
「寅んとこの隣りの大工が、人にからかって手首を折りましてな」
「庄吉という男か」
「御存じですかい」
「わしの朋輩が折ったのだ。あいつは、掏摸でないか」
「ええ、時々やります。しかし根が、真直ぐな男で、悪い事って、微塵もしませんや」
「悪い事をせぬて。掏摸でないか」
「だって、掏摸と、泥棒たあちげえますぜ。庄吉なんざ、あっさりした、気のいい男ですぜ。あいつの手を折るなんざ、可哀そうだ」
「全く」
稽古部屋の人々が出て来た。富士春は、小女の出す湯呑を一口飲んで
「休さん、南玉先生から、さっき、御土産が――」
「そうそう」
と、一人が風呂敷包を渡した。益満が、開けると
「何んだ。薄汚い」
一人が、こういって、益満の顔を見た。
「山猫を買いに行くのには、これに限る」
富士春が
「悪い病だねえ」
「師匠の病気と、何《いず》れ劣らぬ」
と、いいながら、益満は、袴をぬいで
「小道具を、一つあずかって置いてもらいたい。猫は買いたし、御門はきびし」
益満は、そういいながら、部屋の隅で、汚い小者姿になって、脇差だけを差した。そして、両手をひろげて
「三両十人扶持、似合うであろうがな」
と、笑った。
富士春は、次の稽古の人々へ、三味線を合して
「主の姿は、初鮎か、青葉がくれに透いた肌、小意気な味の握り鮨と。さあ、ぬしいの」
と、唄いかけた時
「頼もう」
と、低いが、強い声がした。そんな四角張った案内は久しく聞いたことがなかった。御倹約令以来、侍は土蔵の中へ入って三味線を弾くくらいで、益満一人のほか、ぴたりと、稽古をしに来なくなったし――富士春は、唄をやめて、不安そうな眼をした。
(役人が、又何か、煩《うるさ》いことを)
と、思った。
「入れ」
益満が、答えた。格子が開いたので、富士春も人々も、大提灯のほの暗い蔭の下に立った人を眺めた。
(あいつだ)
と、人々の中の二人――昼間の喧嘩を見ていた人は思い出し
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