、足、手が申すことを聞くまいと思われる。ただ武士の一念として、二人、三人を対手に――これでも負《ひ》けを取ろうとは思わぬが、又、勝てるという自信も無い。勝てる、とは、卑怯ないい草じゃ。わしは、生きて戻る所存は無い。牧さえ刺殺《さしころ》せば、全身|膾《なます》になろうとも、わしは本望じゃ」
八郎太は、床柱に凭れて、首垂《うなだ》れて、腕を組んだまま、静かにつづけた。
「然し――きっと、牧を刺せぬともいえぬ。刺せんかも知れぬ。その時に、小太」
八郎太が、小太と、大きくいったので
「はい」
八郎太は、小太郎の顔を、睨むように見て
「お前は、逃げんといかんぞ。わしを捨てて、再挙を計るのだ」
「然し――」
「心得ちがいをしてはならぬ。父を捨てて逃げても、所詮は、牧を討てばよい。二人が犬死をしては、それこそ、世の中の物嗤《ものわら》いだぞよ」
厳格な眼、言葉、態度であった。小太郎は、それを聞くと、なぜだか、父の死が迫っているように感じた。
女中が、廊下を走って来て
「赤紙どすえ」
と、障子を開けた。小太郎が躍り出るように立上って、受取った。八郎太が、赤紙へ印判を押して、女中に戻した。八郎太は、手紙の裏を返して見て
「袋持から――」
そして、いつものように、小柄で、丁寧に封を切った。
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火急一筆のこと、牧仲儀、今暁錦地へ罷越《まかりこし》候が、不逞浪人輩三五、警固の体に被見受《みうけられ》候に就者《ついては》、油断|被為《なされ》間敷、船行、伏見に上陸と被存《ぞんぜられ》候間、以飛脚《ひきゃくをもって》此旨申進候。七瀬殿並綱手、当座当屋敷に滞留のことと被存候――
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「母上は、首尾よく――」
と、云った時、廊下に足音がして
「又、御手紙どすえ」
「御苦労」
「御使の奴さん――」
「わしが参る」
と、云って、小太郎が降りて行った。八郎太は、友喜礼之丞からの手紙を、黙読してしまうと、大きく、肩で呼吸をした。小太郎が入って来て
「友喜の小者で、怪しい者でござりませぬ」
「友喜の手紙によると、七八人から、十人近い人数が取巻いておるらしい」
「して、修法する土地は?」
「比叡山」
「矢張り――叡山」
「十人と聞いても――二十人おっても、今更、他人の助力を受けたり、後日に延したりすることはできぬ。わしが、牧の修法を妨げて斬死し
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