二つの距離は、三間近くまで縮まって来た。討手の人々は、襷《たすき》へ一寸手をかけてみたり、目釘へしめりを、もう一度くれたりして、両手で、刀を構えかけた。
「池上っ」
「おい」
「やるか」
 池上が頷いた。そして、袴の股立《ももだち》をとり、襷をかけて、刀へ手をかけて、立上った。
 荒い事を自慢にし、喧嘩好きの人足達であったが、頭の上で、刀を振り廻されて、もしもの事があったら、大変だと思った。前の人足は
「おーい」
 と、叫んで、後方の人足へ、余り早く近づくなと、合図した。後方の人足達は、いよいよ始まったなら、輦台を、川の中へ投げ出して、逃げようかと、眼で合図した。だが、二三人の人足は、眼でそれをとめて
「大井川の人足の面にかかわらあ」
 と、元気よく叫んだ。それに、故意に、輦台を顛覆させては、二度と、川筋では、働くことができない掟であった。
 追手の人足は、額の汗を拭いながら、時々、声をかけたり、後方を振向いたりして、なかなか近寄らなくなった。
「うぬらっ、早くやらぬと、これだぞ」
 最先の一人が、一人の人足の肩へ白刃を当てた。
「無、無理だよ、旦那」
 一人が、振向いて
「今日は、帯上だから、そう早く、歩けるもんじゃあねえでがすよ」
 池上と、兵頭との輦台が、急に深処《ふかみ》へ入ったらしく、人足達は乳の下まで水に浸して、速度がぐっと落ちた。その時に最先の侍の輦台が、池上の輦台の間近まで勢いよく突進して来た。
「止めろ、止めろ」
 池上は、足で輦台の板を踏み鳴らした。人足が、その力によろめいて、歩みをゆるめた時、最先の追手は一間余りのところまで迫って
「上意」
 と、叫んだ。

 その瞬間だった、池上の脚が、手摺にかかり、左手で刀を押え、右手を引く、と――見る刹那
「ええいっ」
 追手は、斬るよりも、突くよりも、周章てて、身体を避けた。それは、余りに思いがけない池上の奇襲だったからだ。池上は、猛犬の飛びかかるように、自分の輦台を蹴って、追手の輦台へ、飛び込んだ。
 人足が、顔を歪めた瞬間、輦台が、傾いた。と、同時に、池上の体当りを食った追手の一人は、脚を天へ上げて、白い飛沫を、つづく味方へ浴びせかけて、川の中に陥った。
「たたっ」
 人足は、顔を歪めて、肩へ手を当てた。そして、輦台を持ち直した。池上は、輦台が傾いたので、倒れかかったが、手摺へつかまって、立上
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