ねえ――」
 小太郎が
「わかったから、あっちへ参れ」
 と、いって、庄吉の肩を、静かに押した。
「ようがす。この御道具類は?」
「捨てて置く」
「じゃあ、あっしに頂かせて下さいまし」
 八郎太が
「売って、手首の疵の手当にでも致せ」
「ところがね、へっへっへ、そんな、けちな巾着切じゃござんせん――じゃあ、皆様、あっしゃ、ここで失礼いたしやす」
 庄吉は、丁寧に、御叩頭をして門番の窓下へ行って
「御門番」
 と、怒鳴った。そして、何か、紙包を渡して、物を頼んで、雨の中を、闇に融けてしまった。
 親子、主従六人は、もう顔も見えぬくらいになった闇の中に立っていた。八郎太は、話し出そうとして、妻の顔が、ほのかな、輪郭だけしか見えぬのに物足りなくて
「灯を――」
 と、いった。又蔵が
「はい」
 燧石《ひうち》が鳴った。その火花の明りで、ちらっと見た夫の顔、小太郎の顔。七瀬は、それを深く、強く、自分の眼の底に、胸の奥に、懐の中に取っておきたいように、感じた。
 提灯は、すぐついた。こんなところを、余り人に見せたくないと思っていたが、闇の中で、このまま別れることも、八郎太には、流石《さすが》に出来なかった。
 綱手は、深雪に助けられて、旅支度をしていた。二人とも、灯がつくと涙の顔を外向《そむ》けた。八郎太は、二人の娘の顔をちらっと見たが、平素のように、何を泣く、と叱らなかった。
 七瀬は、手甲、脚絆までつけて、いくらか蒼白めた顔を引き締めて、夫の眼をじっと見た。いつもの七瀬よりは、美しく見えた。小太郎は、親子の生別よりも、反対党に対する憤りでいっぱいだった。彼は、腕を組んで、胸を押えていたが、悲しいものが、胸の底に淀んでいて、時々、押え切れないで湧き上って来かけた。

 七瀬は、何をいっていいか、判らなかった。何かに、せき立てられるようで、いいたい事がいっぱい胸の中にあるような気がしたが、その何れを、何ういっていいのか――苛立《いらだ》たしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。
「いろいろ――」
 それだけいうと、咽喉がつまってしまった。人目が無かったなら、せめて胸へでも縋ったなら、このいろいろの胸の中の思いが、夫の身体へ滲み込むだろうと思えた。四ツ本の無法な、冷酷な仕打ちさえ無かったなら、今夜は、ゆっくり名残を惜めたのにとも思った。そ
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